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この秋に香川の丸亀市にいくことになりました。そこで録画してあったNHK・BSプレミアムの「新日本風土記」の「うどん」という番組を観ました。中でも一番こころに残ったのが、多度津町の小さな小さなうどん店のこと(画面からは多奈加という店名が見えます)。だいぶ高齢のおじいさんとおばあさんが朝4時に仕込みをはじめて、地元の人むけに一日わずか30食ぶんしか作らないといううどん店です。お客さんは平均10人くらい、1食280円といいますから、これで生活できるのか心配になります。しかも高齢の常連さんは一杯を食べきれない。それを自宅まで届けています。これが香川うどんの心なんでしょうね。香川うどんのディープさを教えられました。
でも、こういうお店、いったい、どうやって見つけて取材したんでしょうか。「新日本風土記」は、地方局に配属された新人ディレクターの「卒論」みたいなものなのだと、制作統括の方がおっしゃっていました。数年間の赴任の間にあたためた企画や素材を、最後に「卒業制作」のようにして作り上げる。もちろ渋谷のNHKの地下に一週間くらい滞在して徹底して編集し、それを多くの関係者がコメントして作り込んでいく……なるほど、NHK地方局の底力すごいです。


福岡市図書館シネラで黒澤明の『羅生門』を観ました。学生時代に一度観ているはずですから約40年ぶりの再見です。驚きました。あまりにも覚えていないことばかりだったので。なるほどこうだったのか。

事件の関係者3人が3様の「事実」をしゃべる──つまり3人の異なった殺人者が現れる、とくに3人目は巫女が出てきて死者を代弁する。これは夢幻能だ。そういえば竜安寺の石庭のようなところに関係者が並べられていて、あぁこの映画は能舞台なのだ、能仕立てだったのだ。
さらに多襄丸の三船は「七人の侍」の菊千代にそっくり、志村喬や千秋実、加東大介とともに「七人の侍」はもうここから始まっていたのだ。
結論。映画は一度観ただけでは分からない。本と同じように二度、三度と観るたびに違って見えてくる、違ったものが見えてくる。これって「羅生門」のメイン・メッセージだったんだな。



じつは芥川龍之介の原作にはない第4の視点として、最後に杣(そま)売りの志村喬も語るのです。でもこれで殺人者が4人になるわけではなく、また、この杣売りが、最後にどんでん返しのような形で、黒澤明的なヒューマニズムのオチをつけるところが、ちょっといまいちな気がします。

今月は「シネラ」で「近年話題となった注目のアジア映画の特集」をやっていたので「バーフバリ 伝説誕生」と「バーフバリ 王の凱旋」(ともに完全版)を2週にわけて観てしまいました。それぞれ3時間近くの「大作」です。世界的に大ヒットしたらしいです。でも、この見おわったあとの虚脱感というか虚無感は何でしょう。こんな映画を見ていていいのだろうかとか、お気楽・脳天気な世界観だなぁとか、まるでプロレスを映画にしたような、いやプロレスラーによるプロレス映画なんだな等々。見始めて1時間を超えるころから、退屈して頭をよぎりはじめるネガティヴなコトバたち。「何度観ても面白いね」という声も聞こえましたが、ほんとですか? 私はもう二度と見ないと思うけど。
でも、後半には「国母」なる人物がちょっとシェイクスピアの「マクベス夫人」を思わせる狂乱の様相になったり、主人公がリア王的になってきたり、面白いといえば面白いとも言える。
最後の最後に主人公が敵を討ったあと国王となって鎮座するシーンなどは「ああ、これこそ、宮崎駿監督が、ぜったいにこういう終わり方にしたくないと、「千と千尋の神隠し」で苦労に苦労を重ねた、もっとも避けたかった最悪の典型パターンだ」と痛感させられたり、けっこう見所はあったというべきかもしれません。
でも、この贅をこらした、おカネをかけた、こってりした映像美。単純明快すぎて「ストーリーなんかいらないじゃん」と言うほどのストーリー。これがインド映画なんでしょうか。いや、世界中の映画がこうなってきているのでしょうか。

(今月みたアジア映画の中では「ラサへの歩き方─祈りの2400キロ」のほうが比較を絶して優れた映画だと思いましたけれど……)


つげ義春という漫画家がいる(いた)。寡作で貧乏、孤立して鬱屈した精神世界を描いたり、田舎の温泉の最底辺にいる人たちを描いたり、とにかく不思議な人だ。今の若い人からすると、何なんだ、この真っ暗なマンガは、ということだろう。ひどく暗い、ひどくマイナー、おまけに不条理、とも評される。しかし、だからこそ、コアで熱烈なファンも多いようなのだ。この映画、そういうつげ義春ファンが大挙して出演している。つげ義春本人や奥さん(藤原マキ)が出てくるのも見所だが、井上陽水、原田芳雄、神代辰巳、井上陽水、蛭子能収、周防正行、鈴木清順……等など盛大に出てくる。友情出演した人たちにとって、自分はこういうマイナーな世界に共振する人であると自覚することが、密かな楽しみなのだろう。マニアの間の目配せみたいなものか。
さて、映画のほうは、もうちょっとかなぁ。仕事はしたくない、でも家族を食べさせなくてはならない、そこで河原で石をひろって河原の掘っ立て小屋で売ろう、という常人にはちょっと発想できない方法で生活しようとする「無能の人」の淡々とした孤絶感が原作の魅力のひとつだが、そのあたりの不気味さや不思議さが、この映画では、ホームドラマの中にはめ込まれて薄まっているように思える。でも、それも仕方ないことだろう。映画は、あくまで見物としてドラマとして成立しなければならないのだから。
つげ義春の絵は、内面世界の暗さ、不気味さ、不条理さへとどんどん導かれていくところに特質がある。映画で描けるのは、こうした不気味さではなくて、無能の人たちの、外面上は淡々としている、不思議なおかしさ、だったのだから。


1995─セカイ系の始まりと崩壊

福岡市総合図書館シネラで石井聰亙監督の「水の中の八月」を観る。じつに不思議な映画であった。前半は高校生の青春恋愛映画、ちょっと「桐島、部活やめるんだってよ」的な展開なのかと思わせるが、中盤からおかしなオカルト的な要素が侵入してきて、やがてセカイ系へ変質していく。若者の恋愛がセカイを救うというセカイ系だ。まるで「君の名は。」だ。いまでは珍しくないかもしれないが当時は仰天ものだったのではないか。主人公は明らかに精神の異常をきたしているのだが、ボーイフレンドや周囲も彼女に共振してくる。物語のセカイ系的変質とともに映画がみるみる破綻していくのは鈴木清順の「悲愁物語」にそっくりでもある。主人公が悲愁物語の白木葉子そっくりになってくる。不思議な失敗作なのであるが、最後まで観てしまった。福岡市でロケされていて「あそこだ」的なご当地映画なことも一因だが、いろいろと考えさせられるのだ。破綻しているがゆえに、かえっていろいろなことを考えさせる映画になっているのだ。
まず、1995年という製作年に留意すべきである。「オウム事件の直前」である。そういう時代が刻印されている。そもそもオカルト的になっていくのも「ムー」という雑誌の影響なのだ。これ、オウム事件のあとだったら、けっして制作できなかっただろうし、公開されることもなかっただろう。オウムの前後で、オカルト、精神世界、世界を救う、というテーマ系がはっきり断絶するのである。
今となっては1995年前後の、オウム的な世界観の若者世代への跋扈が、想像しずらい。でも、当時はこんな映画にまで影響を及ぼしていたのか。驚きである。
その他、いくつか印象的なこと。草刈正雄、荒戸源次郎、天本英世などが出演している。荒戸源次郎は福岡高校の理科の先生役で不思議な味をだしている。福岡つながりなのか、なんと楢崎弥之助まで出演している。「国会の爆弾男」との異名をもつ福岡の元国会議員・楢崎弥之助(すでに故人)だ。私は彼の生前、いちど、飲み会でお会いしたことがある。どこかで見た顔だと思いながら、なかなか思い出せなかった。なぜ彼まで……。じつに不思議な映画である。