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宮沢賢治に「圖書館幻想」という短いが奇妙な、幻想的なというべきか、一読しただけでは何のことやらわけの分からない作品があります。
上野の図書館に、「ダルゲ」という奇妙な人に会いにいく話です。
これが、宮沢賢治にとってきわめて重要な、ある親友との再会と訣別のもようを描いた作品だということを、最近みたNHK・Eテレの「宮沢賢治─銀河への旅」で教えられました。
そこで、東京に出かけたさいに、この図書館に行ってみました。(上野に実在します。国際子ども図書館─もとの帝国図書館です)
館内で調べてもらって、宮沢賢治がダルゲと会った部屋(一般閲覧室)を確認しました。いま、ちょうど、イランの子どもの絵本展をやっていました。ここは撮影できなかったので、ここに似た部屋をご覧下さい。


*以下、宮沢賢治の圖書館幻想の一部
 そこの天井は途方もなく高かった。全體その天井や壁が灰色の陰影だけで出來てゐるのか、つめたい漆喰で固めあげられてゐるのかわからなかった。
 (さうだ。この巨きな室にダルゲが居るんだ。今度こそ會へるんだ。)とおれは考へて一寸胸のどこかが熱くなったか熔けたかのやうな氣がした。
 高さ二丈ばかりの大きな扉が半分開いてゐた。おれはするりとはいって行った。
 室の中はガランとしてつめたく、せいの低いダルゲが手を額にかざしてそこの巨きな窓から西のそらをじっと眺めてゐた。
 ダルゲは灰色で腰には硝子の蓑を厚くまとってゐた。そしてじっと動かなかった。


東京大学の武川先生が来福されたので、何かと話題の佐賀県武雄市の図書館を見学にいきました。ここは、たしかにびっくりするような図書館です。図書館なのか、ツタヤの書店なのか、たしかに賛否両論が湧き起こるでしょうね。でも、断然、魅力的な空間です。こういう図書館だったら、毎日、行きたい。

(でも、だいぶ賛否両論があるようですね)


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以下、館内撮影禁止だったので、武雄市図書館のホームページから…

武雄市図書館

武雄市図書館2

丸善から出た『スクリブナー思想史大事典』。私も翻訳者の一人です。もう何年も前に翻訳して、ずいぶんたってから、また訳文を修正したり、けっこうたいへんでした。そのうえ出版されてみると、全10巻で、なんと30万円。これでは翻訳者じしんも購入できないですね。全国の図書館が購入してくれるでしょうか。ツタヤが運営する図書館なども前向きに考えてほしいですね。むしろ、こういう個人が購入できない学術図書を持つところに公共図書館の役割があるのだと思いますが。詳細はここ。


キャプチャ スクリブナー大辞典 キャプチャ 翻訳者

さぁて冬休みの間にいくつか仕事をしていこうと思って、図書館にこもるつもりが、図書館も人の子、年末年始は閉館になってしまうのですね。残念だなぁ。
近くの福岡市総合図書館も、昨日が年内最後の開館日でした。あまり人のいない、大きな空間に、本やノートを広げて、論文など読みながらメモを作る作業が楽しい。『現代思想 2016年1月臨時増刊号◎総特集 見田宗介=真木悠介- 未来の社会学のために』 (青土社) などを読みました。見田先生と加藤典洋さんの対談では、私たち関わった福岡ユネスコ協会での講演とブックレットのことが触れられていました。大澤真幸くんの論文も力作だなぁ。佐藤健二さんの論文は、これまたがっちりした問題提起ですね。


 現代思想 見田先生2

中井久夫著『臨床瑣談 続』(みすず書房)を読みました。
前著の『臨床瑣談』もじつに興味深い話でした。あちらは丸山ワクチンなど癌の話が主でしたが、この本では認知症の話、喫煙や飲酒との別れ方、そして中国医学やインフルエンザなど、もっと身近な医療と人生に関わる話が中心です。
厳密には医療や医学の話ではないのでしょう。むしろ診断や薬などの臨床からの知、洞察というものだと思います。
これを読むと、私たちが、病と、いかに表面的にしかつきあっていないのか。医療や医学も、ほんとうは病を深くは理解していないのではないか、などといろいろなことを考えさせられます。
認知症や、アルコール依存なども、表面的なイメージでしか理解していなかったかということが、分かります。
なかでも、認知症についてふれたところ。
「私は、病院で寝たきりの老人たちの列をみて、ああ、これは50年前の統合失調症の状態に相当するなと思いました。もう何も語らず、小さくなった身体をころんとベッドに横たえている人たちの群れ。」
・・・あと50年したら、認知症も、こんなふうにふり返ることができるようになるのだろうか。

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宮崎の家内の田舎に帰省しています。昨晩、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社)を読みました。
28歳で若くして引退する直前の演歌歌手・藤圭子へのインテンシブなインタビュー。長らくお蔵入りになっていたノンフィクションだそうです。沢木耕太郎や藤圭子のまだ若い時代の清新さがあって、芸能もの以上の深みもあって、読ませますね。
私は演歌や芸能界ものにほとんど関心はないのですが、藤圭子の自殺という不幸な事件をきっかけに世に出たこのノンフィクションによって・・・芸能界という喧噪と魑魅魍魎の世界のはずれに、ああ、こういう人もいたのだ、と気づかされます。残念ながら、藤圭子のその後の人生は必ずしもハッピー・エンドにはならなかったようですが。


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中井久夫『「昭和」を送る』(みすず書房)を読んだ。
複雑で微妙な本である。臨床家としての氏の特質がよく現れているのであろう。理論や枠組みで考える以上に、人間の心と行動の複雑な機微、微妙なところから奥深くへと分け入っていくような手法、精神病の臨床家の名人芸のような論じかたである。それが天皇の話になると、さらに一段と微妙さが加わって、読後感はかならずしもすっきりとはいかない。そういうふうに書かれているのである。そもそも「天皇」は名人や達人が描くと別様なものになるのか。
「土居健郎先生と私」という一文などもその典型で、あっと驚くようなエピソードがさりげなく書かれてある。それを大きく強く論じるのでなく、さりげなくおいて「弁護者の立場に徹してそれを書いた」と記す。この辺り、理論やビジョンでなく、染みるようなエピソードを素材として考えを書くスタイルは、たしかに臨床家に徹した書き方なのだろうなぁ。
でも、われわれに直接は関係ない患者さんのエピソードとはちがって、昭和や平成の問題は、この世界に住むわれわれみんなに強く影響する問題である。なんだか、そのあたり、まだ茫漠として微妙でうまく了解しきれない。

 


昭和を送る

 

昆虫標本異聞
九州大学中央図書館の展示スペースに「烏山邦夫氏寄贈の昆虫標本」が展示されていました。
思わず「鳩山邦夫」さんから昆虫標本が寄贈されたのか、と思ってしまった。あの邦夫さん、有名なチョウチョのコレクターですからね。
でも、良くみると、「烏山」さんで、長崎の田平カトリック教会の神父さんらしい。長年かけてコレクションした珍しい標本をまとめて九州大学に寄贈したんですね。もともと九州大学は昆虫学でも有名です。最近では、不思議な形をした「ツノゼミ」の研究者がいるはずです。
昔は、私もよく昆虫採集をしたものです。でも、今でもよく覚えているのですが、小学校の同級生で、夏休みの課題で見事な蝶の標本を作ってきたのがいました。すごいなぁ、きれいだなぁ、とは思ったけれど、自分が作りたいとは思わなかった。
自然の中での「採集」が好きな人と、採集したあとの「標本づくり」(やその後にじっくりと調べたり比較したりすること)が好きな人とがいるんですね。養老孟司さんなどは、両方好きなようですが、どちらかと言えば、標本づくりのほうが楽しそうですもんね。私は、やっぱり「昆虫学」には向いてなかったんでしょうね。


昆虫

図書館異聞。
土曜日の図書館、期末試験が近いからなのか、ずいぶんと学生で混雑している。それは良いことだが、さてさて騒がしい。どうやらリーディングルームが模様替えされてから、静かに読書する空間ではなく、学生たちが発表したりディスカッションしたりする場になっているようなのだ。ふうーん、図書館はたんに本を読む場所ではなくて、友だちとだべったり、ディスカッションしたり、ゼミ報告の企画をともに練ったりする居場所空間になったのか、それが大学図書館の新しいトレンドなのか・・・。まぁ、多少の疑問なしとはしないが、図書館に学生が集まってくるのは、その反対よりはずっといい。
さて、さらにリーディングルームの奥のほうにいくと、しずかに読んでいる人も多い。でも、よく見ると、公務員試験勉強やら、司法試験勉強やら、何らかの試験勉強をしている人が大多数ですね。ううーむ、図書館の中の静かな場所は、受験勉強空間化しているのか(でも、まぁ、これは何十年も前から、そうだったよなぁ)。


九州大学図書館

阿部謹也の『ヨーロッパを見る視角』(岩波現代文庫)を読むと、どぎもを抜かれる箇所がいくつもある。なかでも最たるものが、東京とロンドンとを比較したところだ。「東京は何のためにあるんですか」と阿部は問いかける。これは果たして「問い」なのか。知事や政治家に聞いても、まず答えられるはずもない。そもそも目的や答えがあると考える人がいないだろう。だから、この「問い」にショックを覚える。われわれは都市に理由があって存在しているとは考えない、考える前からそこにあると思っている。ところが阿部謹也によれば「ロンドン市長は、ロンドン市民の全員が天国に行くためにある、と言うと思います」と断言する。ここには、生きる目的、すなわち、都市の目的がはっきりと意識されている世界がある。「目的」なしに、その日その日を楽しく暮らしている私たちは、ヨーロッパの視角から見ると、はたしてどう見えるのだろうか・・・。


阿部謹也

大学そっくりさん
ケンブリッジの街でカレッジめぐりをしていると、いたるところで「あれ、これ、見たことあるな」という建物に出会います。たとえばハーバード大学やジョンズ・ホプキンス大学の建物のそっくりさんに出会うのです。正確にはハーバード大学やジョンズ・ホプキンス大学が、ケンブリッジのカレッジを真似たのだと思いますが。アメリカの大学は、ほんとうに、オックスフォードやケンブリッジをルーツにしているんですね。そしてオックスフォードやケンブリッジは、中世からのヨーロッパの僧院やら教会やらを受け継いでいるんですね。原型は、ゴシックの教会ですね。ホグワーツの魔法学校の原型は、ゴシックの教会ですからね。僧院だという意味は、そこで寝食をともにして、いっしょに祈る(いっしょに聖書を読む)空間、ということでしょうか。およそ日本の大学とはかけはなれたものですね。日本の大学は、僧や神職の伝統、鎌倉仏教とか伊勢神宮の伝統とはまったく無関係ですからね。むしろ近代になってから建築された「工場」が原型なのではないでしょうか。とくに工学部なんか、その典型ですね。群馬県の富岡市に富岡製糸工場があって、いま、世界遺産登録に熱心です。ここは女工哀史とはちょっと違って、良家の子女が近代的な工場で働くぴかぴかの近代施設だったようです(もっとも労働条件は今からみると女工哀史的だったのかもしれませんが)。日本の官立大学は、西欧(の工学技術)に追いつけ追い越せの機関として始まったところが多いので(もうひとつのミッションは国家官僚の養成でした)、今のような時代には、おのずと先祖返りして「工学的な発想によって運営される学生生産工場」になりつつあるのでは・・・?


ジョンズ・ホプキンス大学にそっくり(ケンブリッジのクィーンズ・カレッジ)
ジョンズ・ホプキンス大学のそっくりさん(ケンブリッジのクィーンズ・カレッジ)
これはハーバード大学のそっくりさん(ケンブリッジ)
これはハーバード大学のそっくりさん(ケンブリッジ)
これは教会か大学か(オックスフォード・クライストチャーチ)

これは教会か大学か(オックスフォード・クライストチャーチ)

中世の城か、薔薇の名前の僧院か(オックスフォードのボードリアン図書館)

中世の城か、薔薇の名前の僧院か(オックスフォードのボードリアン図書館)

私たちの世代なら誰しも中学生時代に梅棹忠夫の『知的生産の技術』(岩波新書)を読んでいるのではないか。この本でいきなり少年の心をわしづかみにするエピソードが「レオナルドの手帳」である。レオナルド・ダ・ヴィンチの万能の天才の秘密(の一端)は、何でも記録するその手帳にあるという印象的なものだった。その「レオナルドの手帳」(正確には手稿)は、現在、様々に分割されてフランスやイタリア、英国などにあるのだ。『知的生産の技術』を読んで40年くらいたって、ようやく今回、大英図書館が所蔵するその「アランデル(Arundel)手稿」の一部を見ることができた・・・ええっ、こんなに小さいのか、こんなに細かな字だったのか。レオナルドがレフティーで逆文字で書くことは、昔NHKで放映した「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯」で印象深く描かれていたから知っていたが、こんなに小さく、こんなに細く、こんなに細かな字を書いていたとは・・・。それにしても大英図書館もすごい。レオナルドの手稿だけでなく、バッハやモオツァルトなどの楽譜、マグナカルタやニュートン発狂の書簡!まで間近で(しかも無料で)見せているぞ。


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友人の野崎歓くんが立て続けに翻訳を出版しています。すごいですね。こんどはフランス(というか正確にはベルギー出身の)文学界の売れっ子ジャン=フィリップ・トゥーサンの新作です。おりしもトゥーサン来日中で、講演会などで東京ではたいへんなことになっているようです。

https://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2186691


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【卒論指導】「ショー&トーク」
アメリカの小学校では「ショー&トーク」という授業をするそうです。
これは、生徒が、自宅から、何か自分の好きなもの何かをもってきて、クラスで皆に見せて、そのことについていろいろ話す、という授業だそうです。
先日、ラジオの教育番組で、これをきいて、なるほど、これは、良い、これは卒論の原点になる、と思いました。
これまで、卒論は、「シーク&ファインド」だと言ってきました。自分が問題を探偵のようになって解明していく、というのは、まさに卒論そのものだと思うのですが、じつは、これは、なかなか難しい課題だということは、先日の卒論題目検討会で、4年生を見ていても思いました。みんな、探偵になりたがってはいるが、肝心の問題を発見していない。犯人どころか、そもそも、どこに問題があるか、それを発見できていない。
問題や課題を設定し、探偵のように、それを追求していく、というのは、なかなか、そうかんたんに出来るものではない、ということが良く分かりました。
でも、これは、本当に大切だが、難しいことなんですね。

そこで、そこまで一挙にいくのは無理、という人には「ショー&トーク」というのはどうだろうかと思いました。
これは、まず、自分の好きなモノについて、自由に語ることから始まります。
ショーするためには、モノ(素材)を、眼前に示さなくてはなりません。ここは小学校らしく、具体的なモノを持ってきて、クラスの皆に示す、ということですすねね。抽象的なコトバやガイネンでは小学校では「ショー&トーク」になりませんからね。
モノをまず示すこと。ついで、それについて語ること。
これは、卒論や研究でも当てはまることではないでしょうか。
モノとは、素材や材料です。現象や社会的事実やデータや組織や人でもかまいません。つまり社会学の対象となる「素材」です。
語るとは、なぜ、このモノ(素材)に興味を惹かれるのか、このモノとの出会いのきっかけや経緯は何か、このモノのどこが好きなのか、どこが良いのか悪いのか、私はここが好きだが、みなさんはどうか、とか、モノ(素材)を媒介として、背景を説明したり、意見を述べたり、その原因や結果を考えたりと、いろいろな展開がある、ということです。しかも、独り言でなく、みんなに向けた問題提起のように発展していきます。そして回りのみんなが、またそれにたいして反応したり意見を言ったりするでしょう。それがまた、そのモノの解釈や分析にも参考になっていく・・・
これは、まさに、卒論の「はじまり」(さらに言えば「研究」のはじまり、探求の始まり)のような姿ではないでしょうか。
(考えてみると、学会での発表なんかも、基本的にはこの「ショー&トーク」なんですね。さらにいうと記者会見なんかも、この「ショー&トーク」かもしれない。奥深いですね)

もし、卒論で考えあぐねていたり、行き詰まっていたら、まずこの「ショー&トーク」という原点に立ち戻ってみて下さい。
自分のテーマについて、それをモノや事実やデータといった「素材を示す」ことから始めて下さい。ついで、それについて語る。語る部分を、次第に展開していくと(つまり掘り下げていくと)、底には、不思議さや疑問や問題や課題が、浮かび上がってくるかもしれない。
ついで、そこに浮かび上がってきたテーマを次の段階では「シーク&ファインド」していく・・・。
どうでしょうか。
悩んでいる人がいたら、まずは、原点の「ショー&トーク」に立ち返ってみたら。


追伸

ちょっと訂正します。「ショー&トーク」ではなくて正しくは「「ショー&テル」というらしい。

ウィキペディアによると

ショー・アンド・テル(英語:show and tell)は、聴衆に対して、何事かを示すプロセスであり、その話題について話すことである。主に北米で行われる教育科目の一つで、オーストラリアでも一般的である。普通は、小学校の低学年の授業で実施され、小さな児童にパブリック・スピーキングのスキルを教えるための技術である。たいてい、児童はなにか家からひとつ道具を持って行き、みんなに「なぜその道具を特に選んだか、どこで手に入れたか、その他、関連する情報」について説明する。日本の義務教育には存在しない教育科目である。

 

 

先週土曜日の福岡ユネスコ協会のシンポジウムでは朝から夕方までずっとすわりっぱなしでしたから、ちょっと腰痛のような、ちょっといやな感じがありました。そこで一週間ぶりにプールに泳ぎにいったのですが、体が重くて重くて。やっぱり疲れがたまっていたのでしょうか。ひさしぶりに行った百道の図書館のあたりも、急に紅葉して、あっというまに散っていきました。


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