昨日、N新聞の若い女性記者から電話がかかってきて「NPOの起こした事件についてコメントを」と言われる。なんでも鹿児島のほうで、町おこしをするためにNPOを立ち上げるから出資を、とおカネを集めて、結局、NPOは設立されず、詐欺のようになった事件が起こったらしい。さて、こういう突然の電話での「コメント」というのは、難しいのですね。そもそも「事件」がまだ良く分からない、そんななかで下手なことは言えないし、いくら良いコメントをしても、それが記者のイメージに合わないと採用されないし。たとえ採用されたとしても短くカットされていて、がっかりと徒労感が残ることも多い。そもそもコメントというのは何だろうか。多くの人たちの考えそうなことを「そうなんですよ」と識者が上塗りするだけのことなのか。そうではなく、より幅広い視点、異なった観点からの解釈を与えることなのか。後者だとすると、これはもうコメントの閾を超えているのですね。今回も「そもそもNPOには出資という考え方がありません」などと言い始めたら、とたんに記者はうーんと言い出し、「こういうことがあったからと言って、法律を厳しくし行政がより規制を強めて管理監督しはじめたら、NPOの本来の目的や原点から離れていくことになります」などと言ったとたんに、はぁ、とため息。「コメントが掲載されたらお知らせくださいね」と言うと「まだ、記事になるかどうか分かりません」と言って電話が切れました。ふううん、これは採用されないな。そしてあらためて考えました。「コメント」というのは、いわば若手記者の「教育」ということでもあるのかなぁ、でも短時間のやりとりで、どこまで出来たのかなぁ、と。


このエッセイについて「N紙とはうちでしょうか。ご迷惑をお掛けしています。コメント取材。私も若いころ、いつも悩ましく、とっても申し訳ない気持ちでしていました。すぐに答えられる分野もあると思いますが、テーマによっては難しく、先生にとっても酷だと思います。」という新聞社デスクからのご返答がありました。

これに、さらに、次のようにお答えしました。こういう交流が意味あるつながりを生み出してくれることを期待したいと思います。


「いえいえ、こちらとしては、取材されないより、取材されるほうがうれしいですよ。そして問われれば、社会的責任として、こちらの知見をぜひ社会へお伝えしたい、と思うわけです。そういう意味で新聞記者と研究者というのは、共通の心をもっているんですね。ですから、コメント求められれば、一生懸命考えて30分でもしゃべっちゃうわけなんです。でも小さな記事のそのまた小さなコメント欄に、こんな大がかりな話が載せられるわけないですよね。若手記者の当惑も、よく理解できます。ですから、若手記者へのエールというか、潜在的なストックになってほしいという意味でお考え下さい。コメント寄せてくださった新井さんのご意見もまったくそのとおりだと思います。若手記者の感度の向上や方向の修正へ、少しでもお手伝いできればと思います。」(2014年2月28日)


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