大学は「最終講義」と「送別会」の時期ですね。それが終わると学生を送り出す「卒業式」ですね。
年齢もあるのでしょうか。このところ「最後の授業」とか「最終講義」とか聞くと、なんだかどきっとするようになってきました。
そこでアルフォンス・ドーデの「最後の授業」、気になって読み返してみました。
数年前、ドイツからフランスへレンタカーで一人旅したことを思い出します。ドイツのフライブルクからフランスのコルマールへ向かう時にライン川を超えました。独仏国境です。国境とはいっても、大きなライン川と、道路に線が引いてあるだけだったと思います。とくにパスポート・コントロールも税関も何もありません。ノンストップでどんどんクルマは通りすぎてゆきます。しかしその周囲はしばらく町も建物もなく、ただ森と田園地帯が広がっていました。ああ、これがあのアルザス・ロレーヌ地方なのだと思ったのです。そう「最後の授業」の舞台となった地です。
「最後の授業」。昔は小学校の国語の教科書には、かならず載っていたように思います。アルフォンス・ドーデの有名な短編小説です。ドイツ(というかドーデの小説ではプロシアです)に占領されたフランスのアルザス地方の小学校で、明日からフランス語の授業が出来なくなるという日の話です。教師は「今日が最後の授業です」とおごそかに語り、子どもは、あぁ、いままでなんで真面目に授業を聞かなかったのだろうと深く後悔する話です。これ、今から考えてみると、子どもの側に立った話ではなく、教師の心を投影した話だったんでしょうね。この話は、とても強く教師の心を打つので、長年、教科書に採用されつづけてきたのでしょう。教師になってみると、本当に、教師と生徒の心が切実にひとつになるような、こんな「最後の授業」をしてみたいものだとつい思ってしまうものですからね。
それはさておき、この話、いまはどの教科書にも載っていないらしいです。時代は移り、フランスの自民族中心主義の色濃い、このような話は「政治的に正しくない」のです。偏ったナショナリズムの残滓として教科書からは一掃されたらしいです。なるほど、たった30年くらいのうちに、こんなに評価も逆転してしまうものなのでしょうか。
かえって興味をそそられて「最後の授業」読み返してみました。ポプラ社から出ている南本さんという人の翻訳です。
正直いってのけぞってしまいます。たしかにこれほど臆面もないナショナリズムの全面展開はたいへんな時代遅れだという感じがしました。「フランス語は世界中でいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばんしっかりしたことばである」とアメル先生は力説するのですね。そして子どもたちも涙ながらに、それをしっかりと心に刻みつけるのですね。ドイツへの敵意とともに。
さて、困ったなぁ。これが「最後の授業」の実体だったのか。授業の最後にやってくるのは、こういう敵意に満ちたナショナリズムだったのか。でも、追いつめられた人びとが、最後によりどころにするのは、こういう悲劇的な状況の中での自己美化、自己劇化なのかもしれないな。いまのウクライナとかロシアに似てくるな。日韓、日中関係でナショナリズムが吹き出すと、なんだか日本も雰囲気が似てきたな。・・・というわけで、まだしばらく「最後の授業」はしたくないな、という気持ちになりました。


これがドーデの『最後の授業』

これがドーデの『最後の授業』

ライン川をわたる

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ラインは広いか美しいか?

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フランスに入るとコルマール。どことなくドイツっぽい雰囲気

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美しい小さな町・コルマール この町には有名なグリューネヴァルトの『イーゼンハイムの祭壇画』があるのだ

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この町には有名なグリューネヴァルトの『イーゼンハイムの祭壇画』があるのだ

 

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