「東京物語」の尾道を歩く



2006/9/5

 大袈裟に言えば「日本とは 何か」を考えていくと、小津安二郎は答えのひとつではないだろうか。普通の日本人でも、 飛び抜けたものでもないかもしれないが、日本人のひとつの特質を、きちんと磨き上げて、さりげなく提示したのが小津安二郎の映画である。ことさら日本を叫 ぶのでも、日本を連呼するのでもない、控えめで礼儀正しいたたずまいが小津安二郎だ。これはどうもわれわれ周辺から消え去りつつあるものだから、よけいに 小津安二郎に「日本」を感じるのだろう。かつてあったもの(と感じられて)で、今やほとんど消滅しているもの、だから或る種のノスタルジアを感じさせるの であろう。小津安二郎と言えば「東京物語」や北鎌倉が舞台の「麦秋」、そして「秋刀魚の味」などが思い出される。その風情が残されているところを歩いてみ た。


 小旅の場合には、良いガイドブックないし良い地図が必須だ。今回の小津安二郎めぐりでは「東京紅團」というページを参考にした。このホームページは、文学 者や文学作品(および映画)に縁の地を歩くという、不思議な旅のページである。物凄くマニアックな人が作っているに違いない。
 このウェブページにもでているのだが、尾道駅前の観光案内所でたのむと「東京物語ロケ地案内」というコピーをくれる。興味深いものだが、この小さな地図だけでは、なかなか分かりにくいのが難点だ。もう少しなんとかならないものか。


小津安二郎の見た風景

  東京物語ロケ地マップによれば、小津安二郎らメインスタッフは「竹村家」という尾道水道に面した和風旅館に宿泊している。また近くの「魚信」という割烹旅 館からも撮影している。ともに東京物語のメインのロケ地となる浄土寺にほどちかい。写真は魚信の海に面した部屋からの風景だ。小津安二郎もロケハンや撮影 で尾道に滞在中、こうした風景を眺めていたに違いない。
(写真は魚信から尾道海道をのぞむ)


「東京物語」の面影

  いまや「尾道」と言えば小津安二郎ではなくて大林宣彦なんだそうである。最近の尾道といったら大林監督の三部作とか戦艦大和が先に来るらしい。「東京物 語」の風情を探して歩いたのだが…しかし私は大林監督の作品を見たことがない。いつか見てみよう。で、尾道といったら、やはり私は小津安二郎だと思う。

 もう50年にもなるというのに、いまだに尾道には小津安二郎と東京物語の影が漂っている。先日、ヴィム・ベンダース夫妻が尾道を主題にした写真展を開いたとの記事を見た。5月の尾道は、驚いたことに、全山、セミが鳴いているのだった。

  小津安二郎と言ったら「東京物語」が真っ先にくるだろう。「東京物語」と言ったら東京より尾道の風景のほうが心に残る。と言うより、東京に出て行った子ど もたちの「近代化」した心性と、尾道から出てきた老親のまさに「日本的」とでも言うよりほかない心性との対比こそが、この映画の骨格となっている。そこに 「原節子」という、なんいうか此岸ではなく彼岸からやってきたような人物が造形されていて、東京と尾道との対立だけでなく、家族そのものを超越するような 何とも言えない読後感のようなものを残す…。ゆえにこの映画が日本のみならず海外でも「傑作」として賞賛されてきたのだろう。


小津安二郎の墓

  北鎌倉・円覚寺に小津安二郎の墓があることは、様々なガイドブックにでている。しかしこれまで訪問したことはなかった。いや、鎌倉や北鎌倉には何度も行っ ているのに、円覚寺じたい、参詣したことがなかったのだ。小さな浄智寺や東慶寺には何度も行っているのに。そこで今回、時間をみつけて行ってみた。墓は、 有名な「無」墓である。墓石に一字「無」とあることで有名なのだ。ずいぶんと哲学的で閑寂な趣を予想していた。しかしちょっと予想とは違って、墓場じたい も、なんだか明るく、墓石も新しくみえた。おまけに隣の墓が「真」その隣が「寂」の一字墓だ。無墓が、他の墓と断絶して孤高の趣を発しているという予想と は、ちょっと違った。円覚寺の宗派では、このような一字に凝縮するのが、それほど異質なことではないのかもしれない。
 しかし「無」というのは、やはり凄い。この俗世界で様々な「有」を創ってきた人が、その達成を記念したり宣言したりするのではなく、有から無に還ったことを、何らかのかたちで伝えたかったのだろうか。
(小津安二郎に関する文献を読むと、小津はその病もその死も、ほとんど予想していなかったようである。突然の入院と、その後の死のあいだに、このような 「無」を考える心的な余裕はあったのだろうか。そもそも本人が「無」を準備していたのだろうか。墓石には円覚寺の住職が書したとある。誰が手配したのだろ うか。もうすこし調べてみないと分からない。)


小津安二郎の北鎌倉

 小津安二郎は晩年、北鎌倉・浄智寺近くに住んだ。隣は日本画家の小倉遊亀宅だったそうだ。このあたりは今でも森閑としている。ほかのどこにもない鎌倉らしい風情と空間と言えるかもしれない。(浄智寺わきの道。小津安二郎邸は、どこなのか、分からないのだが…)


北鎌倉「好々亭」

 ここ北鎌倉「好々亭」は、打ちあげなどでよく使われたところらしい。原節子などといっしょに映っている写真が残されている。ちょっと隠れ家じみたところで、なかなか探し出すのに苦労する。

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