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福岡市総合図書館シネラの鈴木清順特集で鈴木清順の「陽炎座」(1981)を観ました。これも20数年ぶりかな。
はじめて観たときには、あまりの展開に追いついていけず、あれよあれよというまに呆然と見終わってしまった。今回はどうか。物語のすじを追うのは必要でないかもしれないが、二重三重の三角関係、それも心中と破滅へ至る道筋を暗示する三角関係が縦いとである。玉脇・おイネ・品子と、松崎・品子・玉脇、それに加えて、品子・おイネ・松崎……○△□というのが、謎解きのキーワードのように出てくるのだから表の筋書きは分かりやすいといえば分かりやすい。もうひとつが「ひとの夢を横でみている人がいる」。松崎たちの夢を、横から覗いて操る玉脇がいる……でもそのように見ても面白くない。むしろ、通常の筋書きが、どんどんと脇へそれていって、筋書きを裏切る筋書き、オモテからウラへとひっくり返る、あれよあれよというまに見覚えのない彼方へ連れて行かれるようなスリリングな展開こそが、この映画の真骨頂ではないか。とくに最後の場面、田舎の場末の劇場「陽炎座」で、品子(大楠道代)が子ども歌舞伎に引き込まれていくシーン。品子が文楽人形のように操られ幽霊になっていく七変化。品子の変貌に翻弄されて正気を失っていく松崎(松田優作)。すべてを超然と演出しているかにみえて、いつのまにか筋書きに追い越されていく玉脇(中村嘉葎雄)。場面転換が拍子木の鋭い音調とともに歌舞伎さながらに早変わり。能と狂言と歌舞伎がミックスしたような映像は鈴木清順の中でもツィゴイネルワイゼンと並んでもっとも見応えのあるものではないか。

さて、何十年ぶりかで見終わってみるとどうか。エピローグが説明的で冗長な気がする。むしろ田舎歌舞伎場で、幽霊芝居が上演されたあと、芝居小屋全体が崩壊したところで幕、となったほうがよかったのではないか。現が幻想に追い越されて茫然となって自失、発狂、という松崎の姿が、よけいくっきり浮かび上がったのではないか。松崎の書いた作品が、まるでキューブリックの「シャイニング」のように「○△□」だけで書かれていた、というのを暗示するのもよかったかもしれない。いずれにせよ、怪談歌舞伎、幽霊狂言、夢と現の朧な往還、血なまぐさい刃傷沙汰が華麗な映像に乗る、という鈴木清順の特質が、よく現れていて、堪能した。

さて「陽炎座」とはいったい何のメタファーか。「ツィゴイネルワイゼン」は「聴こうとしても聞き取れない外国語」だった。「陽炎座」では「芝居の筋をたどろうとすると、陽炎のように消えてしまう」「作者を見つけようとすると見失う」「魂を求めると、子どもの遊びですよ、といなされてしまう」。つまり読み取ろうとしても読み取れないシナリオのこと。芝居の筋が、読み取ろうとすると、陽炎のように消え去っていく。そのくせ陽炎のようにまた姿を表す。ふたたび追いかけていくと揮発してしまう。誰がストーリーを作っていたのか、誰が演出していたのか。それらの謎が「陽炎」のように消え去る、のが「陽炎座」という舞台だったのではないか。