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プラハにおけるカフカ
現在のプラハにおけるカフカとは、どんなものなんだろうか。じっさいにプラハを歩いてみると、どこか微妙なものがあるように感じられた。こういうことだ。カフカは、チェコ人ではない。ドイツ人でもない。カフカじしん、はじめはユダヤ人であることもあまり意識していなかった。こういう微妙な存在として、プラハでひっそりと生きたカフカが、チェコやプラハを代表する人物であるかのように国外で喧伝されることにたいするプラハの人たち、およびチェコの人たちの無意識が反映されているのだろうか・・・。たった5日間しか滞在しなかった旅人には、そこまで深いものは分からないのだが。でも、なんとなく、カフカ博物館などは、どこかカフカを突き放したような、そんな雰囲気が感じられる。スメタナやドヴォルザークなどは、手放しでチェコの偉人として称揚しまっくっているのにたいし、カフカにはそのような賛美が感じられない。(蛇足ながら、本場、プラハでスメタナのモルダウ、ドヴォルザークの新世界など聴くと、ううーむ、ちょっと、どうも、こんなものかな、と思ってしまう。率直に言って、小中学生が感動するような、国民歌なんですね)。


カフカ博物館 収容所の建物をイメージしているのだろうなぁ

 シナゴーグとなりにあるカフカの像

カフカ巡り3 カフェ・アルコ

カフカの行きつけのカフェが「アルコ」だった。池内紀によれば「カフェ・アルコは日常に欠かせない店になった。友人ブロートと会う。新聞や新刊書を読む。手紙を書く。その辺りは多少ともいかがわしい地区であって、ひそかな愉悦にも利用できる」とある。たしかに、地方から多くの人びとが到着する駅の近くにあって、いまやアラブの人たちの蝟集する、ちょっと危ない雰囲気のある地区となっている。そして「アルコ」じたい、残っているが、もはやかつての輝きはいようだ。


チェコが社会主義国であったことを感じさせる駅舎。地方からの労働者が到着するようだ。

日本の駅よりすばらしい

カフカ巡り2 映画館ルツェルナ
カフカの伝記を読むと、カフカは初期の映画を見ることが好きで「キノ・ルツェルナ」に通ったという。池内紀の『カフカの生涯』(白水社)によれば変身や審判などの作品は「初期キネマトグラフの作品と奇妙に似ている」。池内紀によれば「映画館ルツェルナはプラハに現存している。美しい外観をもち、なかなか優雅なつくりである。かつてそこには、痩せてヒョロリと背の高い小官吏が、客席にすわり、じっとスクリーンをみつめていた」とある。さっそくさがしました。このルツェルナ館、プラハの中心部にあって、ほんとうに優雅な店の並ぶ、いわゆるアール・ヌーボー様式のパッサージュを形成しています。

調べてみると「Lucernaとはランタンの意味である。これを設計したバーツラフ・バベル(同名の元大統領の祖父の建築家)が1909年にこの総合アートセンターを落成させた時には一大センセーションが起こったそうだ。映画館、ギャラリー、事務所、店舗の複合コンプレックスの走りである。建物はアールヌーボー様式の現代ではちょっと見られないインテリアである。全館が当時の最新デザインであるのは、20世紀初頭というのはチエコは欧州の列強の中で経済的にも文化的にもその繁栄を謳歌していたからだ」とある(チョートクカメラ日記)。


 

カフカ巡り1 公務員カフカの職場
カフカの職場。カフカが一生を小官吏として過ごしたことは良く知られている。「労働者災害保険局」で熱心に勤めたらしい。さて、その勤務先はどんなものか。案外知られていないと思うが、プラハの中心部にある堂々たる建物だった。「公務員カフカ」はこんなところで働いていたのか。この建物、いまやけっこうな高級ホテルになっている。中に入ると、そこは「カフェ・フェリーツェ」なるものがあって、カフカの恋人フェリーツェ・バウアーをイメージしたカフェ・レストランになっている。


チェコ共和国のプラハに来ています。パリでの乗り継ぎがぎりぎりでした。からくも間に合ってプラハに到着したのですが、荷物がありません。さて、困った。ほかにもずいぶん荷物が到着しない人がいたようです。

次の便で到着すると思って、ホテルに移動しました。

ところが、翌日も、翌々日にも、荷物がとどきません。

エールフランスに電話してもらちがあきませんでした。

衣類だけでなく、ノートパソコンも、デジカメも、すべてスーツケースに入れていたので、これには参りました。

このまま、荷物なしに旅をつづけることになったらどうしよう、などと不安がつぎつぎにわき起こります。

カフカの街で、まったく不条理な世界に入り込んでしまったような気すらしました。

とうめん生活のため、歯ブラシやひげそりなどを買いに出かけましたが、この時ほど心細かったことは、ないですね。

夜にもホテルマンにエールフランスに電話してもらって、荷物が2日目の夜になっても、まだパリにあることが分かりました。少なくとも紛失はしていなかったので、ちょっと安心しましたが、ゆだんできませんでした。翌朝の1便で送るといっていたのに、その日の夕方になってもつきません。ようやく到着したのが、夜でした。

 

海外に出かけはじめて30年以上になります。毎年数回はでかけるから、相当な回数になっているはずですが、今回のような荷物の不着は、過去に一度、フィンランドであっただけです。その時は、真冬のフィンランドだったのでマイナス20度の世界で、着るものがなくて、寒い思いをしました。でも、その時は、フィンランドの現地の人に助けられて下着や歯ブラシを入手し、また荷物じたいも翌日には安着しました。

今回は、JALでパリにきて、そもそも、巨大なドゴール空港での乗り換え時間が短いなか、成田の発着がおくれてパリに1時間おくれで到着したという事情もあります。でも、JALもエールフランスも、こういうことではちょっと困りますね。ほかにも何人も荷物がこなくて途方にくれている人がいましたし。

また、もし忙しく移動するスケジュールだったら、どうなっていたのだろう。

そうしたことを考えると、なかなか、きもをひやすような事件でした。


城の中にある、カフカの仕事場

カフカの通ったギムナジウムの階段

かつてのギムナジウム、カフカの父の店のあったあたり