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年の瀬に駿台時代を思いだしました。その続きです。「師走」にはかつての「師」について思い出す時期でもあるのでしょうか。
いまだにその授業風景をありありと思い出せる駿台時代の先生といえば、私にとってそれはなんと言っても日本史の金本正之先生です。それまでに出会ったどの先生よりも、授業に気迫とエネルギーと迫真力がありました。一回一回の授業が全力投球。授業するたびにへとへとになっておられたのではないでしょうか。
内容も普通の予備校授業とはまったく違っていました。もし「日本史」が、過去にあったこと、事実として起こったことを、記憶させていく科目であったなら、それは記憶力をためす難行苦行以外のなにものでもない。でも金本先生の授業は違いました。日本の歴史上に起こったことを、ひとつのドラマとして、そこに生きた人間のドラマツルギーを再現しようとするものだったと思います。事実だけではなくおそらく脚色や思いも込められていたでしょう。でも、それは歴史を、TVドラマのように、やさしく分かりやすく解説するのとは全く違っていました。むしろ、事実の客観的な列挙では浮かび上がってこない「歴史」そのものへと肉薄しようとしているようだったのです。授業がそれこそ「歴史的事実以上の事実」へと突破していこうとする、ひとつの学問的情熱、のようなものを感じさせてくれたのです。
それは「日本史」という科目の特徴であったのかもしれません。事実を事実として提示するだけでは、今、こうなっている現在、から過去を正当化するようなことになりかねない。それはとても保守的な作業で、現在の視点からすべてを肯定しようとするナショナリズムになりがちだ。事実だけだと、そうなってしまいそうです。
でも、ベンヤミンも言っているように、「いわゆる「歴史」から〈歴史〉を叩き出す」ような作業が必要だ。ありえたかもしれない〈歴史〉があり、なぜそうならなかったのか、も含めて考えるような〈日本史〉があってもよい、いや、あるべきだ、そう考えられていたのではないでしょうか。
だからこそ、金本先生の授業は、歴史的な事件や事実の中へ、まるでその中に私たちがいるかのようにな場感をかもしだして引き込んでいってしまうのでした。劇的というか歴史上の人物に憑依したかのように。
真似して真似できるものではありませんが、私にとって未だに到達できないひとつの理想的な授業スタイルです。

*さてネットから金本先生を探しても、ほとんど情報は出てきません。かつて茨城大学で教えられていたこと、1994年に亡くなられていたことくらいが分かりました。合掌です。
……と書きましたが、さらに探すと、いくつか、金本先生の駿台予備校時代の授業について感想や資料が見つかるようです。


金本先生の論文───先生は中世史がご専門だったのですね。