From the monthly archives: "5月 2018"

旧知のNHKの牧野望さんが福岡に来られるというので、お願いして安立ゼミにゲスト・スピーカーとして来ていただきました。牧野さんと言えば、「新日本風土記」や「京都人の密かな愉しみ」「あてな夜」シリーズ、それに「アール・ブリット─人知れず表現する者たち」などの製作統括で「知る人ぞ知る」人なのです。ゼミでは、311直後の「新日本風土記」放映開始前後の秘話、「京都人の密かな愉しみ」というドラマの中になぜ料理番組が入ったのか、「京都人の密かな愉しみ」をみた京都人がいかなるクレームをいって来るのか、京都人からのスピンオフ「あてな夜」シリーズはどのように撮影されているのか、あそこで供されるお酒はいったいいくらくらいなのか、などなど、じつに興味深い話が連発されました。そして新聞やTVを(あまり)見なくなった20歳前後の若者世代を前に、放送(TV)と通信(ネット)との法律上の違い、時代や社会の変化に、NHKがどう立ち向かおうとしているのかなど、これまたじつに興味深いお話をうかがうことができました。メディア業界に関心のある学生たちも、将来の就職にも関連するので、いろいろと熱心に質問していました。
たしかに、いつの時代も「転換期」ですが、この20年くらいは、新聞やテレビ、インターネットという「メディア」業界にとっては天変地異にあったかのような激変を経験している最中なのではないでしょうか。先が見えない中で、YouTuberなど個人で発信するインフルエンサーを否定するのではなく、そうした個人発信メディアが出来ないことを追求していく、という肩肘はらない牧野さんのオーソドックスな将来ビジョンが語られました。なるほど、いいですね。
私個人の感想としては、NHKという巨大組織の内側だけで番組を作るのでなく、また「政治や報道」という領域でなく「文化や福祉」という領域で製作されてきたこと、そして巨大組織の外部にいる様々な才能ある人たちとの共同制作というスタイルを追求してきたこと、などが良質な番組を作ってこられた秘訣なのかなとも思いました。


ハワイ大学や東南アジアの大学の研究者たちが来福されて、九州大学西新プラザにて「“Incorporating Southeast Asian Perspectives in Japanese Studies” Project Fukuoka Workshop」が開催されました。私も27日のセッションには朝から参加して、午後のセッションにて報告をしました。演題は、 “Pros and Cons: Controversial New Suggestions and Agendas on Migrant Care Workers” でした。ひさしぶりの英語での報告なので、ちょっと緊張しました。


福岡の中心部・地下鉄「赤坂」駅の近くにある長崎のカステラ屋さんの上が「アンスティチュ・フランセ九州」になっていたのは知らなかった。そこで今日まで、フィリップ・グラ「1968年五月革命の中で」という写真展が開催されていました。フランスの五月革命、もう50年前のことなのか。私の卒論は、今から思うと恥ずかしながら「フランス五月革命の社会学的研究」というものだったので、興味津々、行ってきました。好天にめぐまれた土曜日の午後、最終日ということもあってお客さんは誰もいません。でも、ゆっくり観ることができました。この3月末に滞在していたパリのカルチェ・ラタン。50年前はこんなに風雲急だったのですね。滞在したホテル近くの「オデオン座」、ここも五月革命の中心地だったのだ。パリ大学医学部はホテルからほんの数分。ここが五月革命、最後の暴動があったところだったのだ……などなど、いろいろと感慨深いものがありました。


この五月はシネラ(福岡市総合図書館)で鈴木清順監督の回顧映写会を集中してみることができた。いくつかは見逃したが、かなりまとめて観た。今日はその最終日。午前中の会で「河内カルメン」を観た。これまた破天荒な映画である。シネラの資料によれば「野川由美子の魅力が素晴らしく、少女から商売女、貴婦人、さらには復讐に燃える鬼女と、時間を追うごとに表情や仕草を変えてゆく。まるで野川由美子のための映画のようだ」とある。田舎の少女が、大阪のキャバレーのホステスとなって以後、大胆に変容していくその姿は、ある意味、鈴木清順の変容そのものである。何かに吹っ切れて自在に展開していく。小さく常識的にまとまろうとする流れを、大胆に否定しさっていくそのラディカルさ。狙ったラディカルさではなく、ほとんど生まれつきのような、ほとんど虚無的なラディカルさ。それは鈴木清順監督の人生や戦争体験からくるものなのかどうか。いずれにせよ、今回の特集で、まとめて鈴木清順を体験すると、いろいろなことを考えさせられる。
ひとりの「作家」の作品を連続して集中して観てゆく。これこそまさに「シネマテーク体験」とでも言うべきものではないだろうか。おそまきながらシネラでそれを追体験することができた。


5月19~20日、九州大学箱崎文系キャンパスにおいて「第76回 西日本社会学会」が開催されました。移転・引っ越しをあと数ヶ月後に控えて、これがこのキャンパスで開催される最後の学会になるでしょう。文学部社会学科の学生や大学院人間環境学府の院生たちも、いろいろと手伝ってくれました。私の部会の司会をさせていただきました。幸い好天にめぐまれ、多くの参加者がありました。


「殺しの烙印」とは、ちょっと謎めいたタイトルである。「烙印」とは「Brand」(牧場の牛に焼き印をつけて所有権を主張した)である。「順位」は「Rank」である。映画を見れば分かるとおり、この映画は、焼き印やブランドの話ではない。「ナンバーワン」を見つけて殺そうとする話、殺しやのランキングをめぐる話、そして「ナンバーワン」とは何か、をめぐる話なのである。
殺し屋は、ナンバーワンからナンバー9くらいまで、厳密にランキングされているらしい。組織から指令がきて、しくじるとランキングを落とされる、それだけでなく失敗すると殺される、そういう掟の世界らしい。ナンバー3の男が、ナンバー2や4は始末するが、ナンバー1から狙われる。そういう状況の中で、次第に狂っていくナンバー3。
シネラの資料によると「当時の日活社長は、わけのわからない映画を撮る監督はいらない、と鈴木監督を解雇した」「ところが、ジム・ジャームッシュやウォン・カーウァイといった次世代の世界中の監督に熱狂的に支持され、鈴木清順の名前を世界に知らしめた作品となった」とある。
そういうコンテキストを知らないと、実験的で、訳の分からない映画、と見えてもおかしくない。後半は、ちょっと長い。
真理アンヌという女優が、まだ初々しくて、ほとんど演技らしい演技をしていない。不思議にエキゾチックな人だと思っていたら、インド人と日本人の間に生まれたらしい。大瀧詠一の「夢で会えたら」を歌ったシリア・ポールもインド系らしい。いずれにせよ真理アンヌがまだ十分開花していない時期の映画で、そこにも惹かれるものがある。
さて、ナンバーワンというのは、じつに相対的な概念で、流動していく。それは、本人が決めるものではなく、多くの殺しやの中で相対的に決められていくものであり、本人がいくら望んでも得られない。さいごに、真理アンヌが、じつは、ナンバーワンだったという「可能性」を示して終わる、という筋だったら、どうだろうか。


シネラの配布資料には「公開当時作品評価は低かったが、簡素なセット、原色を強調し突然切り替わる照明など、鈴木清順監督独特の美学が溢れており海外でも高く評価された」とある。なるほど、そのとおりだろう。
今回はじめて観て、強く印象に残るのは次のようなことだ。第1、男同士の強い関係(やくざの親分・子分関係、渡世人の義理と人情、兄いと弟分との上下関係)などが、今日から見ると滑稽なくらい重要なこととして描かれている。これは、ほとんど男同士の「恋愛」を描いている映画ではないか。恋愛と裏切りのドラマツルギー。なるほど、ヤクザの出入りというのは、ある意味、男同士の恋愛感情のもつれから生じることなのかもしれない、などとあらぬことを考えた。それと関連して第2に、男が徹底的に女を遠ざける映画でもある。ほとんど「女性嫌悪(ミソジニー)」の域にまで達している。今日では、上野千鶴子によって有名になった「女ぎらい(ミソジニー)」という概念が、ほとんど純粋なまでに映画で描き出されている貴重な例かもしれない。男同士の恋愛の至上さにくらべて、男女の恋愛の意味がことさら貶められて描かれている。
なるほど、これも鈴木清順映画の特徴のひとつだろう。


1963年は鈴木清順にとって飛躍の年であったようだ。「野獣の青春」「悪太郎」そして「関東無宿」がある。今回の回顧特集で見ることができたのはこの「関東無宿」だけだが、すでに鈴木清順色が満々である。シネラの解説にはこうある。「清順がはじめて挑んだ任侠映画。女子高生が任侠に憧れるという設定で、前半は松原千恵子を中心とする三人娘のアイドル映画になっている。中盤は小林旭と伊藤弘子による恋愛劇であり、終盤に向かうと硬派な復讐劇へと至る」。このストーリー展開だけみても、かなり不思議な映画である。なんで「任侠にあこがれる女子高生」なんだ?この女子高生、最後まで不思議なキャラクターで映画を引っかき回す。それに、より重要な女子高生役の松原千恵子は中盤以降、いったいどうなったんだ。まるで存在が揮発していくのだ。重要な人妻役である伊藤弘子も、なんだか重要なのか、そうでないのか。不思議に中途半端に放り出されていく。小林旭の賭博場での斬り合いや討ち入りも、見事な映像だが、劇画調で、なんでこういう展開になるのか不思議さを残す。そもそも小林旭が「復讐」する必然性なんか全然ないんじゃないか。これを復讐劇というは無理がある。
さらにシネラは言う。「殴り込みの場面はまさに歌舞伎のようであり、その異様な演出が公開当時話題となった。清順美学の極地であり、同時に「悪ふざけ」の極地であるような作品」と。悪ふざけ云々は、あまり感じなかったが、夜桜に花吹雪、雪の舞う殴り込みへの道行き。そして小林旭のド派手なメーク。これは歌舞伎か宝塚か。堂々と、なんのてらいもなくやっている男版宝塚歌舞伎(そもそも歌舞伎は男が女を演じる、それを宝塚がひっくり返してすべてを女が演じる、さらにそれをもう一回ひっくり返して男が女のようなメークで演じる・・・)。
しかも、90分もやって、それで大団円にならない、ストーリーが終わらない。「待たれよ、次号」的なあっけない終わり方で放り投げる。こういう、破綻感、はずし方が、独特の清順流なのか。
この映画をみながら、20年後の「陽炎座」との共通点がいくつもあることにも思い至る。まず、姉さん役の伊藤弘子。この声には聞き覚えがある。ちょっと甘えたようなそのトーン。まぎれもなく「陽炎座」における金沢の宿屋の仲居さんだ。そして彼女の家の周辺の風景、これも「陽炎座」の冒頭のシーン、鎌倉の街角そのものではないか。


鈴木清順名で初めて監督した作品「暗黒街の美女」(1958)を観た。60年も前の映画だが、いまだ古びない現代性を感じるノワール映画だ。これなら清順監督の復活作「悲愁物語」や遺作の「オペレッタ狸御殿」よりも、ずっと映画のできとしては良いじゃないか。
でも、スピーディーに話がすすんで、どでんがえし、危機一髪、さらに逆転でハッピーエンドという映画は、見終わったあとで、すーっと流れ去っていくような気がする。できは良いけれど、ひっかかるもの、残るものがないような物足りなさがありますね。その点、「悲愁物語」や「オペレッタ狸御殿」などは、やっぱりすごいのかもしれない。駄作だ失敗作だとは分かっていても、でも、何か論じたくなるものを、これらの映画は持っている。なんでこんな作品になってしまったのか、解明してみたいとげのようなものを感じるのですね。映画の中に収まりきれない過剰なものがあるんですね。過不足なくすっきりした成功作は、そこが、ちょっと物足りない。不思議なものです。


鈴木清順監督、日活を追放されて10年後の復活となった「悲愁物語」。遺作となった「オペレッタ狸御殿」も凄かった(≒ひどかった)が、この作品も凄い。凄いという意味は、通常はプラスの含意なのだが、この作品に関しては、念願の復活にさいして、よくぞこんなとんでもない作品をつくったな、という意味になる。へんにりきんで浮かび上がろうとしていない。まさに「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある」を地で行っている感じだ。達観しての作品なのか、脱力しての作品なのか、よく分からないところがまた面白いと言えば面白い。私にはこの93分、ちょっとつらかった。とくに後半の45分間は。映画館でなければ見続けることはできなかっただろう。
さて、この作品、シネラで配布されている解説にはこうある。「日活を追われた鈴木清順監督が10年ぶりに復活した記念すべき作品。抒情的な表題とは裏腹に、とんでもない異色作となっている」「前半は完全にスポーツ根性物語……しかし後半はどろどろとした愛憎劇」「おそらく日本映画史上に比類をみないカルト作品であろう。まったく演出をコントロールする気がない。もう最後まで滅茶苦茶だ」……しかし、よくぞここまで書いたな。この解説も相当に凄い。私などはこの解説に引きつけられて、ぜひ観に行こうと思いたったのだ。
さて、この解説に少しコメントするなら「後半は愛憎劇」というのは微妙だ。愛憎劇と言えないこともないが、ストーカー的な一方的な狂気に巻き込まれて破滅していく話なのだから。新興住宅街にたくさんいる精神を病んだ主婦たちの集団が、よってたかって「白木葉子」というアイドルをいじめ殺す映画とでも言うべきか。さらに言えば、江波杏子演じる平凡な主婦が、ご近所いじめの過程でストーカーとなって凄まじい悪魔キャラに変身していく物語、ストーカーを誰もコントロールできなくなっていく恐怖、いじめる側の快感といじめられる側の服従とが、ほとんど運命的と言えるまで、物語の進行を破壊と破滅へと導いていくスリラー劇、とでも言うべきだろう。どこにも救いがなく、だれも幸福にならず、みんなただひたすら墜ちていって破滅する、そういう映画だ。
それにしても、この主人公(とはとても言えない?)白木葉子。「あしたのジョー」の輝かしいヒロインの芸名をもらったうえ、いきなりこんな役をやらされて、その後、いったいどうなったのだろう。ひとごとながら、たいへん心痛める後味だ。