From the monthly archives: "11月 2025"

三好春樹さんを読む(3)  「Nさんのロシア行き」

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心理学と社会学とは、近いようで遠い。看護と介護もそうかもしれない。社会学の中でも、個人から始めるのと社会から始めるのとで、方法的個人主義と方法的全体主義という対立がある。そんな中で一見すると中間あるいは折衷のように見えるのがマックス・ヴェーバーの「理解社会学」だ。当事者が行為にこめた意味を「理解」することが必要だ、というのだ。でもこの「理解」がよく分からなかった。それが、三好春樹さんの本で「Nさんのロシア行き」のエピソードを読んだとき、はっと気づいた。このことではないか、と。調べてみると三好さんは1984年の『看護学雑誌』に「Nさんにとっての〈ロシア〉—隠喩としての老人の言動」という論考を発表している。もう40年も前のことだ。当時、認知症高齢者の行動の意味をまともに受け止めて考えようとする人などいなかったのではないか。

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このエピソードは多くのことを考えさせる。認知症の初期に「家に帰ります」といって施設やデイケアから抜け出していく高齢者たちは数多い。施設の側は脱出して「徘徊」する人たちは、見当職を失って混乱している(だけ)と考えたに違いない。むかしながらの老人病院を見学した時のこと──病院には「徘徊」のための長い回廊が設けてあった。まるでハツカネズミの飼育ケージのように。行動だけみて、「徘徊」に内的意味世界があるなどと考え付きもしなかったのだろう。

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Nさんのロシア行きは、看護とは違う「老人介護」を、三好春樹さんが「発見」した最初期の記録ではないかと思う。三好さんの開拓した「徘徊に出ていく老人を止めるのではなく、いっしょに歩いてついていく」という方法は、いま考えてもラディカルだ。可能なのに不可能と思えてしまうこの方法。だからコペルニクス的な転回を思わせる。専門職はその専門性ゆえ、誰もやってみようと思わなかったのかもしれない。しかし福岡の「宅老所よりあい」では地道に実践されてきた。村瀨孝生さんの著作の中にも、どこまでもいっしょに歩いて行って途方にくれるエピソードが、たびたび登場する。なかでも「ヨシオさん」のエピソードは突出している。自宅では新聞を逆さまに読んでいる。「徘徊」についていくと、書店に入って本を逆さまに並べなおす。さらに驚くのは、蕎麦屋にはいったあと、その厨房の奥にまでずんずん入っていって裏口から出ていくというのだ。「よりあい」の職員や村瀬さんたちを翻弄し疲労困憊させたうえ、見失ってあたふたする村瀬さんがようやく見つけて安堵の気持ちでハグしようとすると、するりとよけて、先を急ぎます、とさらに歩いていく。こうしたエピソードを読むと、抱腹絶倒したあとで、社会学の考えている「社会」などするりと抜け出て、「この社会の枠組みを突破する人」を見たような気がする。頭で考えたラディカルさではなく、身体から滲みでるラディカルさである。まるで、その先に《もうひとつの社会》があると行動で表現しているようだ。この人たちからは「社会」という概念や束縛が消えうせている。意図しない自由でアナーキーな姿が浮かび上がる。三好春樹さんは全共闘世代の人だから、全共闘世代が意識でやっていたことを、Nさんは身体でやっているように見えたのかもしれない。

*三好春樹、2009、『認知症論集─介護現場の深みから』、雲母書房



 

「介護はパワーではない」という話が三好春樹さんの『老人介護 常識の誤り』(2000)の中に出てくる(三好さんは当時あえて老人問題といっていました)。介護は介護力だと見られていた時代、制度や政策が良くなって介護力を投入すれば老人問題は解決すると考えられていた時代に、その常識をラディカルに疑う論調で、いま読んでも(いま読むから)新しい(政治に力をつければ国際政治問題は解決するのか)。力に頼った介護が老人をダメにしてきたと三好さんはいう。介護は力ではない、ふたつのソーゾーリョク(想像力と創造力)のほうが大切だと。まったく正論で正論こそ実行しがたいものなのか。


プールで「ゆっくり長く泳ぐ」のを始めたのは腰痛に悩まされたからです。ところが同じレーンに、ばしゃばしゃと力任せに泳ぐ人がいると、ペースを乱されて長く泳げません。三好春樹さんは、介護の世界でも力任せに介護をする人がいる、それを「介護力士」と表現していたのを思い出しました。力任せにいろんなことをする人はスポーツにかぎりません。相撲力士だって力ばかりでは勝てませんし、政治の世界にもあてはまるかもしれません。政治家ならぬ「政治力士」がたくさん出てくる時代になりました。ゆっくり長く泳いでいこうとすると、こういう人たちがじつに困った人になるんですね。(書影は構造主義の人類学者レヴィ=ストロースの『野生の思考』にちなんだ『野生の介護』)


福岡ユネスコ協会のセミナーで、西成彦さんが「内村鑑三の『デンマルク国の話』を読む」という話をされました。大国が小国になっていくときに経験すること、大国とは何か、小国とは何か、日本の現状に照らしていろいろと考えさせられます。最後にフロアから「なぜ北欧は豊かなのか、なぜ小国なのに豊かなのか」という根源的な質問が出てきて、ぎくりとさせられました。大熊由紀子さんの『寝たきり老人のいる国、いない国』(1991)が出てからはや35年。かつての英国モデルがひっくりかえる中、福祉関係者の北欧もうでが始まりました。私もデンマークやフィンランドに行ったことがあります。たしかに高福祉です。でもなぜこれが可能なのか。いろいろと説明がなされますが、いまだに納得のいく説明を見たことがありません。西さんも「奇跡だったのか、何かトリックがあるのか、わからない」とのこと。この「トリック」という言葉にはぎょっとさせられました。ここには考えないといけない何かの「問い」があります。


介護界のレジェンド・三好春樹さんが、「宅老所よりあい」の村瀨孝生さんと私の共著『介護のドラマツルギー』(弦書房)を高く評価してくださっています。三好春樹さんの本もずいぶん参考にさせていただき、引用もしていますから、とても嬉しいですね。


共同通信による『介護のドラマツルギー』の書評の配信が、全国各地の地方紙の書評欄に掲載されたようです(11月1日ないし2日)。沖縄タイムス、琉球新報、大分合同新聞などの各紙に掲載されたことは確認しております。もっと多くの新聞に掲載されたかもしれません。この本は読みやすくていっきに読んでいただける本です。でも私の執筆したパートは、村瀨さんの前著『シンクロと自由』を何度も読み返して読解したもの、「宅老所よりあい」の30年以上の歴史や、介護保険の25年のあいだの転回などを踏まえて考察したことなども書かれていて、いわばミルフィーユのような多層的で多声的な本ですので、そのあたりもぜひ読んでいただければと思います。