かつては聴けなかったラジオ番組──最近ではradikoで聴けるようになりました。沢木耕太郎のクリスマス番組「ミッドナイト・エクスプレス─天涯へ」を久しぶりに。これってクリスマス・イブの夜に恋愛で悩む若者向けの人生相談みたいな番組かと思っていたら──そして前半はそういう趣ですが、後半はそうでない。なるほど、この番組が25年も続いているのには理由がちゃんとあったのですね。平野甲賀さんや井深大さんのエピソード、よかったなぁ。


年内の【社会学入門】授業も残すところあと1回──黒澤明の映画「生きる」と新約聖書の「最後の晩餐」とを対比して社会学的な考察をする、という、われながら思い切った、あるいは思い切りすぎた補助線を引いて、年内の講義を終えようかと思います。うーん、あまりに大胆すぎる飛躍なので、うまく理解してもらえるかどうか。思いついてから一ヶ月以上、このアイデアを話すかどうか、迷っていたのですが、はたしてどうなることでしょう。


【社会学入門】で「シン・ゴジラ」の社会学を話しました。それは何か──アメリカによる日本のトリアージ、というテーマではないでしょうか。「シン・ゴジラ」には天皇も皇居も出てこない。その代わり「アメリカ」が出てきます。「ゴジラ(1954)」は、天皇をめざして東京にやってきた。「シン・ゴジラ」は、東京のアメリカつまりアメリカによる日本支配をめざしてやってくる。その結果が、世界を救うための3発めの原爆投下という矛盾にみちた「トリアージ」となる。コロナ禍の時代、トリアージされる側に立った異論や反論は少ない。「シン・ゴジラ」を観ることは、トリアージされる側の無念、トリアージの合理性に負けてしまう悲哀、そういうものを経験することではないでしょうか。


 

12月8日は、太平洋戦争・開戦80年目でした。大学一年生に向けての講義【社会学入門】を、この日に行うことの意味を考えながら内容を準備して話しました。おもに岡本喜八監督の映画「日本のいちばん長い日(1967)」の話をしました。これは黒澤明の映画「生きる(1952)」や本多猪四郎の「ゴジラ(1954)」から問題意識を共有してまっすぐにつながっている映画と思います。さらに後の「シン・ゴジラ(2016)」へもつながっていきます。「生きる」と「日本のいちばん長い日」を対比させて、キューブラーロスの「死の受容の5段階」という補助線を用いると、この二つの映画──じつに興味深いことが見えてくる、というお話をしました。


これは2012年、今から9年まえの今頃の箱崎の九州大学キャンパスです。中庭の櫂の樹が、ちょうど今頃、見事な紅葉をむかえたあと落葉がはじまっていました。夜、帰宅する前に、その姿をフラッシュを焚いてとってみました。夜の紅葉も、なかなか美しい──というか美しくも無気味でありました。このキャンパス、いまは、移転とともに破壊されて跡形もありません。
つけくわえると、この楷の樹、中国の孔子廟からやってきたもので、新キャンパスに移植する予定でした。根回ししているうちに、枯死してしまいました。かわいそうなことをしました。がんじがらめにされて、苦しそうでした。そのうえ移植失敗という、やりばのない哀れさでしたね。あの移植の失敗はいったい誰が責任をとったのでしょう。かなり高額の移植費が必要なので、厳選して移植する樹木を選んだはずだったのですが。


昨日の村上Radio──録音しておいて、今夜、聴きました。すでに、全国的に、ざわざわざわと話題になっているのではないかと思いますけれど、今回の、村上春樹は、凄かった。これまでの放送で、いちばんだったのではないでしょうか。言いにくいことを、さらりと言ってのけて、抱腹絶倒。大爆笑のあと、やがて寂しき日本の現実、みたいな気持ちになりました。これって、すごいですよね。


11月25日は三島由紀夫の命日です。昨年は亡くなって50年で様々に話題になりました。今年は何も話題になりません。昔はなんてばかな死に方をしたのだ、くらいしか思っていませんでした。しかし最近はこの時期、この問題を授業で触れるようにしています。三島に共感するからではありません。授業で取り上げている映画「生きる」の続編が「ゴジラ」であり、そのゴジラが人間になると三島由紀夫になると思えるようになったからです。三島の話をしても、学生は黒澤明や「生きる」や「ゴジラ」と同じく、もう誰も三島を知らないようでした。


明日は社会学入門の授業、黒澤明の「生きる」の2回目です。「生きる」の後半の話になりますが、いきなり通夜の席になるのです。主人公は死んでいる。「これは夢幻能ではないか」というのが、明日のテーマになります。黒澤明の映画が能の影響を受けているというのは、多くの人がすでに語っているところです(乱や蜘蛛の巣城などが典型です)。でも、「生きる」にすでに夢幻能の世界が現れている、そう論じてみたいのです。夢幻能として「生きる」を論じると、いったいどういうことになるか。次々に着想が湧いてきて、自分でもわくわくしてきます。スライド50枚になりました。それでも終わりません。「生きる」も3回目まで持ち越しそうです。はたして一年生に理解してもらえるでしょうか。


社会学入門の授業で黒澤明の映画「生きる」を取り上げます。「生きる」──黒澤明の代表作ですが、誰もが名画だというのですが、じつは観たことのある人は少ないのではないでしょうか。ましてや今の若者にしてみたらどうか。ためしに院生に観てもらったら、暗い、怖い、見たくないという感想でした。何しろ癌で余命数ヶ月という老人が、人生をふり返って苦悶する映画です。無気力極まる役所で、死を意識した主人公がひとり奮闘して児童公園を作り上げてそこで死んでいく物語──こういう「あらすじ」を聞いたら、学生たちは観たいとは思わないでしょう。しかもモノクロの70年前の映画です。
でも、こんな表面的な見方ではつまらない。そういう見方とはまったく違った、新しい見方を示したい。この映画の中には「千と千尋の神隠し」にも通じる、現代の若者にも通じるはずの、隠された重大なテーマがある。そう思い立って半年間、いろいろと考えてきました。普通、言われていることとまったく違うことを言いたい、と思って授業を練り上げてきました。さて、結果はどうなるでしょう。2週にわたって「生きる」の社会学を話すつもりです。


福岡のシネラで「胡同の理髪師」(2006)という中国映画を観ました。当時90歳代という現役理髪師が淡々とした人生をしめしてくれる映画。全編、これ老人たちが、死ぬことについて、葬儀や人生の後始末について語りあう映画。でも、暗くなく、からりとしています。いくらか映画のために作ったような場面も出てきますが、90歳の主演の淡々とした態度(ほとんど演技を超えている)に救われます。なんだかいろいろ考えなければならないことなのに、考えてもそのとおりにならないもの──そういう人生のおしまいの機微が現れているように思います。ちらっと樹木希林と山崎努が演じた「モリのいる場所 」を思い出しましたが、全然違っていますね。胡同の古い路地裏が懐かしい。もうなくなってしまったのでしょうか。


キルギス共和国の映画「山嶺の女王クルマンジャン」を観ました。キルギスという国の映画を大きなスクリーンで観るという機会は、そうはありませんね。この映画、国家プロジェクトとして作られたもののようで、国母とされる「クルマンジャン・ダトカ」の伝記映画ですが、「アラビアのロレンス」そっくりの部族乱立の中からの祖国統一物語であり、ロシアとの戦いにあたっての女性リーダーの役割という点では、北条政子を思わせるものがありました。映画の最後に95歳まで生きたという本人の写真が出てきました。


香川県丸亀市で講演しました。今回の講演はじつに2年ぶりの対面での講演でした。この間、大学の授業もすべてオンラインだったので、じつに久しぶりでした。やっぱりリアルな対面は良いですね。皆さん熱心に聴いて下さったので、楽しくお話しできました。90分の話のあと、さらに熱い質疑応答がありました。何よりいちばん嬉しかったのは、会場が30名に限定されていたのに、持参した最近の著書10冊が完売したことでした。こういうことは、めったにないことです。何よりの評価をいただいた思いでした。皆さん、ありがとうございました。ぜひ、来年もうかがいたいです。


大島弓子さんが文化功労者、突然の報にびっくりしました。何十年も前、私が大学生となって駒場の文学サークルに入ると、少女漫画ずきの男子が何人かいました。私はこういう人たちがいるのが大学かと驚き、そして読んでみました。中でももっとも強く何かを感じさせてくれたのが大島弓子の作品でした。少年漫画とは明らかに違う精神性のようなものがありました。そして同時に少女漫画という狭いジャンルを突き抜けていく疾走力がありました。死の影のある生という特徴的な主題は、年譜をみると「誕生!」あたりからではないでしょうか。堀辰雄みたいな世界から始まり、みるみる高みに登っていって1975年あたりから独自の世界観を確立していったようです。世評が高いのは1978年の「綿の国星」でしょうか。私はむしろ1980年代以降の作品に惹かれます。特徴的なのは漆黒の死の世界の中にたった一人放り出されて、そこで絶望するのでなく、意想外の発想へと飛躍する場面です。いま、たくさんは思い出せませんが、たとえば「秋日子かく語りき」における「ベンジャミン」です。これは凄い、本当に凄い。読まれていない方は何のことか分からないと思いますが、死にゆく人が、観葉植物ベンジャミンに託して、家族の思いを探ろうとするのです。この突出した発想とその説得力、そして悲しみの中からあふれてくる喜び。これこそ、大島弓子の真骨頂ではないかと思います。


200人超受講の1年生向け「社会学入門」も一ヶ月がすぎました。4回の講義のうち「千と千尋の神隠しの社会学」で3回やりました。が、まだ話したりません。この講義、もう5年くらいやっているのですが、毎年、新しい発見があって、つぎつぎ膨らんでいくのです。今回は、選挙中とあって「選挙と投票」について考えさせるシーンが「千と千尋の神隠し」の中に埋め込まれている、という話をしました。なるほどびっくりそのとおり、という感想と、牽強付会だ、という意見に分かれましたが、考えるヒントになればと思います。講義では、千尋は君たちだ、いや私たちだ、千尋の直面した問題は、私たちの問題だ、という趣旨で話してきたので、いろいろと考えてもらえる機会になったのではないかと思います。



香川うどん県丸亀市に講演にいってきました。この機会に村上春樹のエッセイ「讃岐・超ディープうどん紀行」に載っているお店にご案内いただきました。ちょっと地元の人でないと行き着けないような場所にあるうどん店です。2年前には「がもううどん」をご案内いただき、今回は「中村うどん」でした。ここはまずロケーションが素晴らしい。見事な讃岐富士のふもとにあって、かつては田圃や畑のなかにぽつんとあったようです。いまや超人気店になって、かつての畑は駐車場になり、土曜のお昼ということもあって行列です。すごいなぁ。しかも安い。みんな、このうどんを「呑む」ようにあっというまに食していきます。これまた壮観ですね。村上春樹が訪問した20数年前は、今から数えると先々代ということになるらしいです。いまやあれから3代目にあたる若い主人がめんを打っています。香川のうどん文化の奥深さを今回も深く実感いたしました。


今週末、香川県丸亀市に講演にうかがうのですが、2年ぶり2度目です。毎回、心躍るのが「うどんツアー」です。思えば、1998年出版の村上春樹のエッセイ集の中にある「讃岐・超ディープうどん紀行」を読んで以来の念願ですから、もう23年ごしの「うどん」とのご対面になります。前回うかがった時には「がもううどん」をご案内いただきました。今回、いよいよ「中村うどん」にご案内いただけるとのことで、いやがおうにも期待が高まってきました。なにしろ村上春樹が「ディープ中の最ディープのうどん屋」と評し、うどん紀行の最後にふたたび「しかし中村うどんは凄かったな」と書いてるくらいですから。23年の時をへて、はたして、この村上春樹の評は生きているのか、これもまた、興味津々なところです。


今年3月に上梓した拙著『21世紀の《想像の共同体》──ボランティアの原理 非営利の可能性』への書評が、日本社会学会の機関誌・社会学評論に掲載されました。学会誌でこんなに早く書評されるのは、あまりないことなので、びっくりしました。


日本に来ている留学生には、日本を理解する上で、NHKの「新日本風土記」と「美の壺」というTV番組を推薦したいと思います。日本の地域や庶民を地道に丹念に取材して、ほろりとさせる人情味あふれるのが「新日本風土記」。そして草刈正雄のおとぼけ味につつんで日本文化の精髄を紹介するのが「美の壺」。両方とも端倪すべからざる番組で、ふつうの私たちが知らない世界がここに広がっています。最近でいうと「新日本風土記」の「東京の地下」というのは出色でした。地下のレタス工場、地下8階の国会図書館、歌舞伎町の地下ライブハウス……極めつけは、かつて新宿地下広場で「フォークゲリラの女神」と言われていた人が50年ぶりに登場して、変わらぬ主張を堂々と。これには、どぎもをぬかれました。すばらしい。(NHKの人にきくと、新日本風土記は、ディレクターが初任地で数年かけて地道に取材した成果の、いわば卒業論文のような性格もあるらしいですよ。東京の地下の場合は、ちょっと違うかもしれませんが)