「ツィゴイネルワイゼン」を観る
2026年4月、福岡市総合図書館シネラで久しぶりに鈴木清順の映画「ツィゴイネルワイゼン」を観ました(フィルム上映で)。
1980年の映画ですから46年前の映画になります。この映画が公開された当時の自分史と重ね合わせると、駒場から本郷へ進学したころです。本郷の社会学研究室には不思議な先達として橋爪大三郎さんがいました。当時、無所属。しかし先生以上の先生として尊敬を集めていました。地下室では橋爪さんを中心に秘密めいた研究会が開かれていました。そこで橋爪さんのガリ版刷りの原稿「ツィゴイネルワイゼン: 知の擬態」を読みました。これには大きな衝撃を受けました。なんと、この映画は日本の近代的な知識人の本質的な「弱さ」が描かれているというのです。一見、近代的なインテリ知識人にみえるが、それは「本物への擬態」ではないか。
レコードの中でサラサーテが演奏中に何か呟いている。それを必死に聴き取ろうとする主人公の二人。これこそ近代化日本の知識人の似姿そのものだというのです。当時の橋爪大三郎さんは「無所属」。どこにも職をもたず、小室ゼミや自主研究会などで若い院生を指導しながら、膨大な手稿を書き溜めていました。それらはのちに出版されていきますが、当時はまだ知る人ぞ知る、といった存在でした。橋爪さんは、当時の学会やアカデミズムは、まさに「知の擬態」だと批判的に見ていたにちがいありません。だから、この映画を、大学や学会やアカデミズムへの批判として、さらに自分自身への鞭撻として真摯に受け止めたのではないかと思うのです。
この論考は衝撃的でした。映画の中に社会学を見つける。こういうことが可能なのか。それを教えられたように思ったのです。
社会学に進学したばかりの時でした。


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