「最後」とか「最終」というの何か人を切迫させるものがあります。「最後の晩餐」のあとに「最後の審判」がある、というようなキリスト教的世界観だけでなく、やはり「終わり」が近づいてくると、人は何かせき立てられるものがあるようです。あたかも夏休みの終わりに急いで宿題に取り組むように、また試験時間の終了間際にあせって解答を書き込むように。
大学では1月から3月にかけて退職教員の「最終講義」というものが行われます(後述するように必ずしも退職教員すべてが行うわけではありませんが)。私も様々な人の「最終講義」に出席してきました。
大きく分けて二つの種類の「最終講義」があるように思います。第1は「最終講義はしない」というスタイルです。人生はまだ続くのだし、「最終講義」をしてしまうと、お葬式をしてしまった後に生きながらえているようで、どうにも収まりがわるい、だから一切のセレモニーをしない、というスタイルです。「最終講義」の後には「レセプション」ないし懇親会などのパーティがあって、わざわざやって来てくれると恐縮するし、閑散だと寂しすぎるし、いずれにせよ気分的に大きな負担になる、ということもあるでしょう。第2は「集大成の走馬灯」スタイルです。これまでの学問人生を走馬灯のようにふり返りながら集大成的なまとめをするスタイルです。一番穏当で一番最終講義らしいスタイルです。多くの聴衆(現学生、元学生、同僚や関係者)が来てくれるとたいへん幸福でしょう。しかしこういうハッピーなスタイルが可能になるのには、ある条件が必要なように思います。私が見るところ大学とつながった「業界」のようなものがあり、そこにしっかりと支えられている先生でないと、なかなか、こうはならないのです。例えば医学部や教育学部などがそれにあたります。教え子が、大学に引き続いてその業界で医師や教員になっていたりすると、多くの参加者があって賑やかで華やいだ最終講義とパーティになりやすいのです。
さて、つい先日、大学時代の友人が早期退職するので「最終講義」をしました。たくさんの人たちがかけつけ、華やいだ雰囲気の中での「最終講義」でした。彼は有名教授でありましたが、必ずしも「業界」の人ではなかったと思います。きっと彼の人徳だったのでしょう。その意味でも理想的な「最終講義」でした。


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