From the monthly archives: "3月 2017"

パリ大学ナンテール校を訪問しました。ナンテールはパリ大学の社会学部があるところですね。1968年の「パリ五月革命」の時には、パリ大学の中でも社会学部はそのひとつの拠点となったところです。ダニエル・コーン・バンディという学生がリーダーになっていました。パリ市内ではなく郊外の大学都市なので、なかなか訪問する機会がなかったのですが、ぜひ一度は訪ねてみたかったところでした。
「パリ五月革命」というのは、いったい、何だったのだろう。ナンテール校にそんな歴史があることを知る学生は、どのくらいいるのでしょう。当時、アメリカではベトナム反戦、シビル・ライツ・ムーブメント、チェコでは「プラハの春」、日本では全共闘、中国では文化大革命、など、世界同時的に、学生の反乱というものが沸き立っていたのです。中でもパリの五月革命は、反ドゴールの全国ストライキなどが起こって大きな社会動乱となりました。サルトルらが学生支持して「パリ・コミューン以来の革命の可能性もあった」などというほど騒然としたものだったのです。
さて、ナンテールには、1968年の雰囲気はすでにどこにもありません。都心のパリ大学とは全然ちがって建物自体がどこか機能主義風の近代的な建物。院生に聞くと「パリの中でいちばんアメリカ風」なのだそうです。社会学の建物だけでなく、「マックス・ヴェーバー館」なんていうのもあって、D.H.ロレンス学会などをやっていました。でも、学内のポスターや張り紙は、ばりばりの「サヨク」風。マルクスの絵もいたるところにあって、このグローバル資本主義の時代とは、明らかに違う空気もあります。さすがフランス。でも近づいている大統領選は、いったいどうなるんだろう。トランプ現象と同じことが起こってしまうのではないかと、みんな心配顔。
ナンテール周辺は、ちょっと治安も良くないとききました。テロのあったサン・ドニといい、パリ郊外は、いろいろと問題含みですね。


パリ大学・ナンテール校、総合的な学部構成だとききました。この広いキャンパスに、日本人留学生はなんと5人しかいないとか・・・

社会学部の教室などをのぞきました。「社会学」らしいポスターやコロック、落書きなどが

ナンテールはぽかぽかした春爛漫の陽気で、学生たちが芝生でなごんでいました。日本の新歓みたいな雰囲気ですね。

パリというと豪華絢爛なフランス料理のイメージではないでしょうか。最近だと懐石料理のようなヌーヴェル・キュイジーヌのイメージもあるかもしれません。たしかにパリ中心部の観光地はそうかれしれないです。また短期の旅行客にとっては豪華なレストランに行くのかもしれませんが、一歩、郊外にでたり、国際大学都市の近くを歩くと、オシャレなフランス料理店など、まず見当たらない。そもそもレストランなるものは高級すぎて学生がいくところではない(私も)。住宅地には(というかフランスには)コンビニもない。スーパーはあるが日曜は完全に休み。朝は遅く夜も早じまい。おまけに手軽な軽食やテイクアウトもほとんどないのだ(パリ国際大学都市周辺にはケバブ店くらい)。この国際大学都市は世界からの留学生や研究者がたくさん集まって生活しているわけだから、相当なマーケットがあるはずなのに、そうはならない。これはじつに不思議なことだ。「美食の都」のはずなのだが、実際に暮らしてみるとそうではない。ミシュランに代表されるように、最高峰は、たしかに世界の最高峰かもしれない。しかし、最高級の食と、普段の食との落差が、けたはずれに大きいのだ。日本人からみると「普通」の食事のレベルは、じつは日本にはるかに及ばないのではないか。これまた、不思議な大きな謎である。だから、普通やそれより下の食事のレベルこそが問題な私のような人間にとっては、ここは、なんだかひどい砂漠のようにも感じられる。


サンミッシェルにてクスクス料理を食す

ヌーヴェル・ヴァーグの生まれ故郷シネマテーク・フランセーズに行ってきました。
トルコ生まれのアンリ・ラングロワという亡命者にしてシネマテーク・フランセーズの創設者は「若くしてすべてを失ったので、すべてを残したいと思った」と言います。シネマテーク・フランセーズは、まさにフランス映画の源泉、ここからトリュフォーもゴダールもジャン・ピエール・レオーも巣立ったのでしょう。いまやベルシーに巨大なシネマテークとなっています。
さて「映画ミュージアム」を見学したあと、いよいよ、映画館に入りました。ちょうど「銀幕の日本」という特集週間で、この日やっていたのは寺山修司の「さらば箱舟」。寺山修司の遺作となったものですが、2時間以上の大作なのに、ストーリイが入り組んでいるのに収斂しない。緊迫感に欠けているかな。いつもの寺山のどんどん異世界に入っていく迫力と求心力がない。どこか既視感のあるイメージが続くばかり。原田芳雄、山崎努など、超一流の役者をそろえたのに、ちょっと残念な作品だと思います。シネマテークでも、途中でがんがん席を立つ人がいました。さて、シネマテーク。これはすごい映画館だ。なかなか日本には、こんな映画館は、ないのではないか。大きいし、ゆったりしている。くわえて、安い。4.5ユーロ。福岡にも、福岡市総合図書館が、アジア映画のシネマテークをめざしていて、これも立派だし、すごいのですが、比べてみると、シネマテーク・フランセーズとは、全然ちがいますね。これは、文化に対する国家や行政の支援の本気度の違いとしか言いようがありません。フランスは、昔から、紆余曲折はあれ(アンドレ・マルローがラングロワを更迭して大事件になったりした)、圧倒的に文化に注力してきていますからね。フランスという国家の本質は、文化なのです。さて、日本は……どうなのだろう。


パリ国際大学都市日本館で「フクシマ支援の夕べ」が開かれました。私はすこし遅れて参加したのですが、だいたい次のようなプログラムでした。第一部は浪江町の民謡や歌、民話や紙芝居などでした。津波と原発事故による非難のために、こうした豊かな東北の民俗文化が、いま、消え去りつつあるのだということを訴えるものでした。第二部はヒロシマ出身の監督のアニメ「無念」の上映でした。このアニメは、浪江町の消防隊の人たちが、津波のあと、救出活動したかったのに、役所の二次災害への懸念から止められ、翌日には、今度は原発事故のために、津波被災者の救出ではなく、住民の退避の誘導しかさせてもらえず、津波被害者を救出出来なかったというトラウマに、6年後の今もさいなまれるという実話にもとづいた物語で、とても胸を打つものでした。その後に、浪江町の方々の一人一人の思いとフランス側からの質問と応答、というものでした。約3時間にもわたるプログラムですが、ほとんど退出する人もなく、熱心に聞き入っていました。
フクシマの被害を、ヒロシマに重ね合わせて、フランスの方々に伝えたい、たいへんな経験を伝えたい、というものだったと思います。それはたしかに伝わったと思います。
問題は、その先です。フランス側からは「原発の現状にかんがみ、これからどうするつもりか」という趣旨の質問がでました。フランス側からはチェルノブイリ原発事故を調べている科学者も報告して、だいぶたってから子どもへの被爆被害がでているが、という問題提起もありました。言外に「日本はこれほどの被害を受けたのに」まるで「フクシマ原発事故のことを無かったことにしたい」というかのようにふるまっている現在の日本政府をどう思うのか、という質問のようにも聞けました。また、危険(かどうかは様々な議論がありますが)な現地への帰還政策についての批判的な疑問を含めた問いかけのようにも思えました。
浪江町の方々は、こうした質問には、とても戸惑ったようですが、「地元に帰りたい、でも、帰れない」という「無念」さを語られました。このままでは、フクシマの豊かな民俗文化や、地域「社会」そのものが消失してしまう、ということを訴えるのも今回のプログラムの意図だったのだと思います。
そこで私が思いだしたのは、1970年代に、サルトルとポーヴォワールが来日した時のことです。サルトルが、日本の知識人と「核兵器」問題について話し合った時のことです。日本側は、大江健三郎もふくめて「核廃絶は日本の悲願だ」と主張しました。サルトルは、それは分かるが、では、どうしたら核の廃絶が可能なのか、と問いかけました。サルトルが核兵器保有国のフランスを弁護しているわけではなかったでしょうが、日本のいう「悲願」だけでは現実の世界が動かない、どういう対抗策があるのか、ということを問いかけて、双方のすれ違いというか、落差を感じさせるものだったと記憶しています。
この落差は、現在も、続いていると思います。フランス側はヒロシマに加えてフクシマの原子力被害を受けている日本の浪江町の方々を支援したいと思っている。しかし、その方向は住民の「帰還」ということなのか、という疑問でもあったのでしょう。フランス的な科学と合理主義の発想でもあったかと思います。浪江町の方々はそれには答えられない。
そこで、ヒロシマ出身の監督が「原爆で被爆しても、100歳まで生きた人もいる。フクシマも放射線量が場所によって大きく異なる。これからどうなるか、分からないということを分かってほしい」と訴えました。たしかに、遠くからみると、フクシマ全体が被爆していて、なぜ避難しないのだ、政府が避難させないのではないか、というフランス側の素朴な疑問があるのも分かります。
浪江町のリアリティからすると、これまでさんざん政府に協力してきたのに、突然、手のひらを返すように、避難しろ、とただそれだけで、何の説明もなく、津波の被災者を見捨てさせられてしまったという、とても深い無念さが、やり場のないまま、屈折している。でも、その思いは、現政府を批判したり非難したりするほうには、単純には向かわない。向けてもかえって状況を悪化させてしまう、そういう思いもあるのでしょうか。苦渋の無念さ、とでもいうべきものでしょうか。(このあたり、国家の政策にひたすら協力して、その結果、悲惨な公害が起こり、国家とするどく対立してきたミナマタのことも、深く思い出されますね)
この無念の深さは、フランスだけでなく、世界が理解できるものなのか、ということも頭をよぎりました。原爆や原発の事故を、ただ「無念」と受け取るだけではなく、それを「解決」していくべきではないか、というフランス側の思考と、「安らかに眠って下さい、過ちは二度とくりかえしませんから」という日本の思考との、かなり根源的な違いのようなものも、あるように感じました。
この違いの認識は、日本人として、とても、つらい。すぐには、理解しあえるものでもない。どちらが正しいというものでもない。そういう苦渋さのようなものがあるのを感じました。
でも、分からないということを分かってほしい、というだけでは、原発の再稼働に前のめりになっている日本政府の現状を認めてしまうことになるのではないか。フランスとも政府レベルで協力しあおうといっていることを、どう思うのだ、というフランス参加者の気持ちもとても分かる。
サルトルの時代の議論を思いだし、根本的な問題については、変わっていないのかもしれない、なんだか、とても、重苦しいものを感じ取りました。


パリ国際大学都市の日本館に来ています。月末まで滞在しています。留学生のためのドミトリー施設なので、シャワーもトイレも共用の、机とベッドと(冷蔵庫があるのは助かりますが)がらーんとしたところです。到着当初は、部屋になにもなくて、近くのスーパーにタオルやコップや食料品など買いだしにいったりしました。
でも、ここが、1929年以来、とりわけ戦後の日本のフランスへの留学の入口でありつづけてきた歴史あるところなのです。
高校時代に愛読した加藤周一の『羊の歌』にも、パリに到着してこの日本館に入ったことが、そしてその周辺に優秀な人たちがたくさんいたことが記されています。昨年6月の前回に続いて、この日本館に滞在できるのは、何か、特別なことのようでもあります。
さて、到着早々、日本館の桜はすでに満開をすぎており、散り始めていました。お花見の会が予定されていましたが、すでにほとんど散っていました。例年より早いそうですが、日本よりも北にあるパリのほうが桜が早いなんて、びっくりしてしまいました。


去30年間を振りかえると、ワープロが現れ、ノートパソコンが現れ、そしてスマホが現れと、まさにキーボード入力の戦国時代でしたね。そして今、キーボードそのものが「消滅」しはじめているのかもしれない……まさに栄枯盛衰がありました。
それまで、日本語にキーボード入力は、なじまないと思われていたと思います。
それがあっというまに、みんながキーボードを使うように激変しました。そして今、キーボードは消滅しつつあるのでしょうか。キーボード盛衰史というようなものを考えました。

ここではちょっと「親指シフト」キーボードというものを振り返ってみたいと思います。
キーボードというのは不思議で、手になじまないといけないし、小さすぎてもだめ、大きくてもだめ、打鍵がぺなぺなでもだめ、しっかりしすぎていても疲れるなど、個人的な好みに非常に左右されるのですね。


私は、もう30年近くにわたって「親指シフト」派です。「親指シフト」というのは、富士通のワープロから始まって独自に「ガラパゴス化」した入力方法とキーボードですが、文章をたくさん書く人たちの間では抜群の人気を誇っています。私は、学生時代にワープロ専用機「オアシス先生」というのを購入して「ブラインド・タッチ」(「キーボードを見ないで打鍵できる」という意味ですが今ではPC的に良くない言い方らしいです)をマスターしました。以来、親指シフト一筋ですが、正しい選択だったと信じています。私は、社会学の先輩の橋爪大三郎さんが様々なワープロを検討した結果「これが良い」というのに従ったのですが、私の他にも彼の「布教」で入信した人は多かったようです。社会学者では他にも佐藤健二さん、大澤真幸さんなどが「親指シフト」ですね。


こうした人たちも今では、それぞれのキーボードを「親指シフト」として入力したように変換するソフトウェアを用いているのです(ただしキーボードによって「親指シフト」化しやすいものとそうでないものがあります)。
さて「ガラパゴス化」したキーボードなので、本家本元の富士通が「親指シフト」を止めてしまった時は不安でした(それ以前から富士通のものは使っていなかったのですが)。またOSが変わるたびにエミュレーションソフト(キー入力をフックして変換して親指シフト配列にするのだそうです)が動かなくなったり、OSの転換期には少数派の悲哀を味わうこともありますが、その都度「ニコラッター」とか「yamabuki」とか個人で変換ソフトを作って公開してくれる人たちが出現するので助かっています。Macでも「野良ビルド」とか「Keyremap」とか現在では「Lacaille」などが出てきています。


私はといえば、富士通のオアシスが無くなってからは、親指化しやすいキーボードを求めてずいぶんたくさんのキーボードを試しました。そしてこの15年以上は、ThinkPadのキーボードを「親指シフト」化して使っています。これを現在は「yamabuki-r」などで親指シフトにしています。ThinkPadもIBMからレノボに代わってどうなることかとひやひやしましたが、現在までは、なんとか大丈夫です。ThinkPadだけでも、もう10台(代)以上は使ってきました。これがいちばん手になじみます。他にも、デスクトップに 東プレの「REALFORCE」をつけて使ったり、Macも「親指シフト」にしていますが、あまり長い文章を書く気にはなりません。
このあたりから、人間とキーボードとの相性がでてきますね。ひとそれぞれです。たとえば、ものすごくたくさん文章をかく友人の一人も親指シフターですが、iMacの、あの新しくて薄くてぺなぺななキーボードでまったく問題ないそうです。私は……ぜんぜん、だめでした。


さてそうこうするうちにデスクトップは消えかけ、ノートパソコンですら縮小していって、スマホとかタブレットの時代になりました。この入力が難しい。
いつのまにか、パソコンにキーボードなど、どんどん少なくなっていって、学生など、スマホだけです。そしてフリック入力とか、とても真似できない不思議な入力方法で、ぐんぐん入力していくのを見ていると、時代が代わったという感慨と、「親指シフト」もいつまで生きながらえるのか、ちょっと不安な気もします。
私の場合、iPad、iPhoneなどでは音声入力が中心です。画面上では、ほとんど打てません。
かつては「音声入力」など夢のまた夢かと思っていましたが、現在のは、かなり実用になります。今後、ますます音声入力が進化していくことでしょう。


でもそういう「進化」だけでないものがある。
私はこの数年「手書き」に猛烈に、回帰しています。手書きには、キーボード入力や音声入力にないものがあります。いつも数種類のノートブックを持ち歩き、何か感じたり、思いついたり、メモしておきたい時には、万年筆で筆記することに「悦び」を見いだしています。頭が思いついたことを、指先が受け継ぎ、こんどは指先が考えはじめ、書き付けながら、思考が膨らんでいくのを覚えます。これが快感です。アイデアが、芽吹いて、ふくらんで、展開していくのを実感できます。


学生たちを見ていると、手書き派が圧倒的に少なくなっています。紙のノートなど持っていないかもしれません。でも、それはもったいない。ノートパソコンやスマホは革命的でしたが、紙と手書きも、それ以前の「革命」だったはずです。どれかを得て、どれかを捨てるには及ばない。それではもったいない。それぞれの良さを複合的に、そして相乗的に、味わって活用していきたいものです。
私は、アイデアを着想し、それを書き付け、ふくらませ、育てていく段階で、以前にもまして、ノートに万年筆で手書きするというプロセスの中に、固有の「楽しさ」を感じるようになっています。


「アール・ブリュット(生の芸術)」のドキュメンタリー。Eテレ「人知れず 表現し続ける者たち」を観ました。NHKのBSやEテレからは、時々、すごい番組が現れるけれど、これもそのひとつ。
「アール・ブリュット(生の芸術)」とは、正規の美術教育を受けた経験のない人々が創る、何ものにもとらわれない独創的な美術作品のことを言うのらしいですが、見るとすごいです。打たれます。本人も作品も、そしてご家族も。もしかすると作品以上にご家族の姿に打たれるかもしれない。このご家族があったから、この作品が生まれたのですね。
アンリ・ルソーやゴッホなどにも、おそらくこの「アール・ブリュット(生の芸術)」の要素が濃厚にあったのだろうと感じさせます。
陶芸による芸術庭園『虹の泉』を一人で作り上げたという東健次さんという人など、まるで、ガウディではないか。
どれも考えて、意識して作っているのでない、どうしようもなく、内から切迫して表出しているのでしょう。
正しいのかどうか分かりませんが、小林秀雄の『ゴッホの手紙』を想起してしまいました。
小林秀雄は、ゴッホを論じながら、彼の描く絵が、彼にとっての「避雷針」であったと述べています。ゴッホに、雷のようにやってくる恐ろしい発作にたいして、絵を描くことが、避雷針になったのだという『虹の泉』のです。本人は芸術を作ろうとはしていなかったかもしれない。けれど、残された作品には、何か超絶的なものがあります。それは芸術をめざした高みではなくて、生きていくことの困難さにたいする戦いだったのでしょうね。
*この作品は、2017年3月4日(土) 午前0時再放送されるそうです。


「シン・ゴジラ論」で加藤典洋氏が言及していた「新世紀エヴァンゲリオン」における「使徒」の原型は「台風」であるという説。
どこに出ているかというと加藤典洋・多田道太郎・鷲田清一の鼎談本『立ち話風哲学問答』(朝日新聞社, 2000年)です。もう17年も前の本なんですね。多田道太郎さんはもうお亡くなりになっています。
この本、毎回、ひとりがお題をだして、三人がそれについて語り合う。「新世紀エヴァンゲリオン」というお題を出したのは加藤典洋さん。一晩で26話ぜんぶを観たという。他の二人は、さすがについていけず、途中でリタイアしたらしい。
加藤さんによると、当時の学生は、全員がエヴァンゲリオンを観ていたという。そしてそこから何事かを引き出していたという。今もそうなんだろうか。
私は、これまで「エヴァンゲリオン」を見たことがなかったので、昨年、NHK・BSで「新世紀エヴァンゲリオン」が毎週、再放送されているので、少しずつ見ている。終わりに「エヴァ噺」というのがあって、今の芸能人が、いかに熱心にエヴァンゲリオンを見ていたかが語られる。
さて、使徒のことですが、ラジオの気象通報で「東経百三十五度四十分北緯二十一度二十五分の海上に大型台風が発生、現在勢力を増しながら北北西の方向より接近中」という感情や抑揚を付けずに放送される。あぁ、そっくりだ。綾波レイの語りも、ラジオの気象通報が原型だったのか。


使徒と天使は違うものだから、この英語はちょっとおかしい。

加藤典洋氏が昨年の『新潮』9月号に書いた「シン・ゴジラ論」を読んだ。加藤氏は、以前から斬新な「ゴジラ」論を発表してきたので、今回の「シン・ゴジラ」をどう観たのか。何しろ、「ゴジラ」の次回作には、ぜひ脚本に参加したい、とすら書いていたのだ。その希望は叶えられなかったわけだが、それゆえ、今回の「シン・ゴジラ」をどう観たのか、興味はつきない。
さて、加藤典洋氏の「シン・ゴジラ論」、いろいろと斬新な視点があった。
まず、次のような指摘に驚いた。1954年の「ゴジラ」第一作が、発足直後の自衛隊をさっそく登場させ、画面いっぱいに大々的な「軍事行動」を展開した初めての映画だったということ。ついで、2016年の「シン・ゴジラ」は、日本政府が米国に、はじめて日本防衛の軍事作戦を要請し、米軍が東京上空で、はじめて軍事作戦を展開する映画だった、という指摘である。
なるほど、言われてみればそのとおりなのだが、ひとりの観客として、そういう風には観ていなかったのである。
もうひとつの特徴は「エヴァンゲリオン」との対比で多くが論じられていること。これは、私も「シン・ゴジラ」を観たときにまっさきに感じたことだから、驚かなかったが、その「エヴァンゲリオン」の論じかたに独特のものがあって興味深かった。何しろエヴァに毎回登場する「使徒」は「台風」のメタファーだというのだ。これにはたまげてしまった。しかし、言われると、たしかにそうだ。人知を越えた自然の猛威が、突如、日本を襲ってくる。しかも頻繁に。地震は地下からだが、台風なら上空から襲ってくる。なるほど、というわけである。
三つめの指摘。「ゴジラ」の原点となった1954年の第一作は、「ゴジラ」に、米軍の東京大空襲や原爆、そして太平洋戦争での死者が重ね合わされていた。今回の「シン・ゴジラ」には、もちろん原発事故や米軍(や国連軍)という存在が重ね合わされている。
しかし、それだけではない。今回の特徴は、そこに「電通」という存在も大きく重ね合わされているというのだ。この場合の電通とは、メディアや報道にリミッターがかかる、という日本的な現象のメタファーでもある。これまで何度も論じられてきた「1954年のターン」など、政治的・文化的タブーが、今回も、なぜ突破できないのか、それについても言及している。この指摘にも、なるほど、であった。