From the monthly archives: "12月 2019"

2019年は加藤典洋さんが亡くなられた年でもあった。
年末に、遺著というか、おそらく最後の本だろう『大きな字で書くこと』(岩波書店)が出たので、それを読んでいる。
これは、なんという本であろうか。潜在的に、自分の死を予感しながら書いていたのではないだろうか。どれも心にしみるエピソードが、短く、印象的に記されている。
加藤典洋さんには、福岡で、一度だけ、ご一緒したことがある。授業に打ち込んで、打ち込みすぎて、片方の耳が聞こえなくなった、ということをさらりと語られていた。
そういえば『言語表現法講義』は、まさに教室での真剣勝負のやりとりだった。その他に、『さようなら、ゴジラたち』も授業でのヒントに使わせてもらっている。ずいぶんと学恩をいただいていたのだ。


先週、国立民族学博物館の出口正之教授の主催による松原明さん(シーズ・市民活動を支える制度をつくる会創業者)の「伝説の研究会」に参加してきました。その話題は出口さんはじめ、多くの方々の報告があるので、ここではさておき。この会場となった国立民族学博物館は「万博記念公園」の中にあります。そう1970年の大阪万博の開催跡地なのです。私は小学校6年生の時、家族でこの万博に行きました。ですから約50年ぶりの万博会場の再訪です。いきなり「太陽の塔」が見えます。当時はシェードのようなものがあって、これほどすっくと立った太陽の塔は見えなかったはずです。当時、入場するといきなりテンションがあがって、舞い上がって、何を見たのか、よく覚えていません。ひとつだけくっきりと覚えているのは、当時からわがままだった私は、かってにいろいろ動き回ったあげく、迷子になってしまったことです。そして、その迷子と迷子の親を捜すマッチングシステムが、子ども心にも「うまくできてないなぁ」と思ったことです。迷子のほうは、親の名前を伝えて探してもらうのです。親のほうは、子どもの名前を登録します。マッチングできません。で、結局、帰りの新幹線に間に合わず、ようやく会えた父親とふたり、家族は帰ったあと、しょんぼりして居残りで関西に宿泊したことを覚えています(私の当時の実家は群馬県でした)。そして翌日、帰りの駅で「よど号ハイジャック事件」を知ったのでした。


後からみるとペンギンそっくり

不思議な模様のライトアップ

こんなに大きかったのか

熱中小学校の翌日、熊野古道のディープなご案内をしていただきました。修験道の先達によって拓かれた古道は、その後、国道などの生活道路になると、その痕跡が見えなくなると言います。その意味で、厳しい、不便な道だけが、古道、として残ったのかもしれません。先月の四国の「お遍路道」でも感じたことですが、お寺や札所が「目的地」ではないのだと思います。点と点をつなぐ「道」こそが大切なのだと思います。お遍路さんは「同行二人」だと言います。熊野古道も、この大自然と道こそが「霊場」であることを体感する場なのではないかと思います。


今回「くちくまの」を訪問するにあたって、熊野古道も魅力的だったのですが、それ以上に関心をもっていたのは南方熊楠でした。紀伊田辺に到着後、まっさきに訪れたのも南方熊楠旧居でした。ここは予想以上でした。旧居がほぼそのまま残っているのです。熊楠が、晩年の25年を過ごした家がここだそうです。2000年までは娘の文枝さんが住んでおられたそうですが田辺市に遺贈されたそうです。文枝さんの「熊楠が生活していた当時の姿に戻してほしい」という遺志があり、大正年間の姿に2006年復元・改修されたそうです。
ここは、すごい。ぜひ訪れるべきところです。

(この前日、和歌山市を自転車で巡った時、苦労してようやく「南方熊楠生誕の地」を発見しました。でも駐車場の片隅に胸像がひとつあるだけでした。)


この中に粘菌をいれて、天皇に見せたという、伝説的なキャラメル箱

「紀州くちくまの熱中小学校」でお話しをさせていただきました。ここは山間の山あいの小さな分教場そっくりです。じっさいに分校だったそうです。
そう、ここは、宮沢賢治の「風の又三郎」そのものです。生徒さんは、まるで三郎、一郎、嘉助、かよさんたちですね。風の又三郎の時代より、女生徒さんが多かったです。
ここで、偶然ですが、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」と宮崎駿の「千と千尋の神隠し」、そして「となりのトトロ」との関連のお話しをさせていただきました。授業開始が「起立、注目⁉、礼」というので、びっくり。いきなり、生徒さんの「圧」が強くて、どぎまぎ。うまくしゃべれたかな。どうだったでしょうか。


今日から社会学入門で年内の3回ぶんは「ゴジラ」の社会学の話をすることになります。その前ふりとして、今回は、中村哲さんのご逝去のことに関連してお話しをしました。中村哲さんは、現代にあらわれた「ナウシカ」です。

どういうことでしょうか。

中村哲さんが用水路を作っていた場所は、まるで山脈に囲まれた「砂漠の谷」のようなところでした。この砂漠は「風の谷のナウシカ」  の「腐海」のようです。アフガンの人びとに愛されながらも、アフガンの人によって殺されてしまうところは、まるでキリストのようです。

「風の谷のナウシカ」の最後のシーン、ナウシカが王蟲の触手によって生き返るシーン、それはまるでキリストの復活のようです。中村哲さんの思い出は、その死によって、さらにのちのち意味が深まっていくことでしょう。「ゴジラ」が日本社会に何を問いかけているのか、それとも関連するところです。


大学での「社会調査法講義」──教科書を用いての講義だけでは、なんとも味気なく、底が浅く、つまんないので、今学期からは、新機軸を実験しはじめました。フィールドワークや質的調査の方法論を教えたあとで、その実践篇として、沢木耕太郎のルポルタージュを読むのです。沢木耕太郎?、あれが社会調査?──そういぶかる人もいるでしょう。でも、これは、れっきとした社会調査です。凡百の社会調査よりずっと社会調査らしいものだと思います。おまけにその文章がいい。聞き取ったことを、考え抜いたうえで、どう文章にしていくか。その実に良いレッスンになると思います。


 

中村哲さんが亡くなられました。今年の8月、九州大学・椎木講堂でお話しを聴いたのが、最後になってしまいました。残念です。
中村哲さんは、現代のナウシカだと思います。来週の社会学入門の講義では──「中村哲さんは、おじいさんの姿をして現代に現れたナウシカである」というお話しをしたいと思います。