From the monthly archives: "9月 2012"

9月29日、加藤典洋さん、黒川創さんをお招きしての福岡ユネスコ協会シンポジウム「考える人 鶴見俊輔」が開催されました。たっぷり3時間半、濃密なシンポジウムだったと思います。私も後半の部の司会をいたしました。終了後、夕陽沈み行く博多湾を船で能古島にわたり、懇親会をして、フェリーでもどってきました。


「福岡ユネスコ特別文化講演会および対談」を開催しました 
テーマ:「考える人 鶴見俊輔」
講演1:(作家) 黒川 創氏 演題 “行動する人 鶴見俊輔”
講演2:(文芸評論家) 加藤典洋氏 演題 “書く人 鶴見俊輔”
去る9月29日(土)、福岡市の電気ビル共創館「大会議室」にて上記の講演会を行いました。
戦後長く活躍している思想家の一人である鶴見俊輔氏は、日常生活を重視し、プラグマティズムを実践して、多くの社会活動にかかわってくる一方、早い時期からマンガや落語などのサブカルチャーを評価して時代を先取りしてきた人でもあります。講演等を通じて、福岡ユネスコ協会の活動にも古くから関心をよせていただいています。(会誌「FUKUOKA UNESCO」に過去の講演録を掲載しています)
鶴見氏のこれまでの幅広い活動を、戦後世代の黒川創氏、加藤典洋氏が読み解きました。
講演に続き、司会に安立清史氏(九州大学大学院人間環境学研究院教授)を迎えて対談を行いました。
フロアからの質問も多数寄せられ、熱のこもったお話が続きました。



思想としての311
明後日のシンポジウム関連の本ですが、『思想としての311』(河出書房新社)には、今回来られる加藤典洋さんも、鶴見俊輔さんも、吉本隆明も、書いておられます。加藤典洋さんの「未来からの不意打ち」という311論は読みごたえあります。さらに『311 死に神に突き飛ばされる』(岩波書店)も、必読だと思います。放射能は、われわれ中高年を「じゃまだ、そこどけ」と突き飛ばして、若い世代を直撃する。そういう論点を、じつに鋭く論じています。



この時期、みなさん、彼岸花に注目されるでしょう。福岡と佐賀との県境、三瀬あたりは、田んぼに彼岸花が多くて、とても美しい秋の風景です。毎年、この時期、三瀬のそばを食べにでかけて、彼岸花をみて、古湯温泉につかる、というのが最高の秋の一日コースですね。

彼岸花は調べてみると「自生ではなく、中国から帰化したものと考えられる。その経緯については、稲作の伝来時に土と共に鱗茎が混入してきて広まったといわれているが、土に穴を掘る小動物を避けるために有毒な鱗茎をあえて持ち込み、畦や土手に植えたとも考えられる」そうです。
Cluster amaryllis or Red Spider Lily, we call it ‘Higan-bana’.


何人かの学生に聞いたところ加藤典洋さんとか黒川創さんは言うにおよばず「鶴見俊輔」さんのことも知らないという人がほとんどでした。ちょっと絶句してしまったのですが、そういう時代になったのかなぁ。
気を取り直して、積極的に紹介していくしかないですね。
私は、加藤周一、吉田秀和、鶴見俊輔という3長老に私淑していて(会って話をきいたことがあるのは、加藤周一さんと鶴見俊輔さんだけですが)、この三人の本は、だいたい読むことにしていました。現代の3大知識人だといっても良いかもしれません。(この三人、知っていますか。加藤周一さんも吉田秀和さんも亡くなってしまいました)
(ほかに吉本隆明さんも欠かせないかもしれませんが、私は、そんなにたくさんは読んできてなかったもので。吉本隆明さんの講演も、一二度、聞いたことがあります。東京で。雪の日に講演を聴きにいったら、長ぐつをはいて講演をされていたのを印象ぶかく覚えています)。
さて、鶴見俊輔さんの入門は、いろいろありえますが、まずは社会学者の、小熊英二さんと上野千鶴子さんが、鶴見俊輔さんの人生を聞き取った『戦争が遺したもの-鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(新曜社)などは、どうでしょう。



もうひとつ、これもおすすめ。

今週土曜日の福岡ユネスコ協会主催のシンポジウム「考える人 鶴見俊輔」に講演者として来られる加藤典洋さんの本をいろいろと読んでいるところです(後半の質疑応答の司会を、私がするので・・・)。
なかでもばつぐんに面白いのは『さようなら、ゴジラたち』(岩波書店)。ゴジラとはいったい何のメタファーなのか。ゴジラが、ハワイやオーストラリアに向かわず、何度も何度も日本にやってくるのは、なぜか。なぜ、ゴジラは、皇居をおそわないのか。ゴジラがやりのこしたことは何か。
じつに秀逸な問いかけですね。そして答えが、あっと驚くようなサプライズですね。
映画としては、とくにゴジラの第一作めが良いようです。初期のゴジラ映画、見てみたい(私がみたことがあるのは、だいぶ後になってからの、キングギドラ対ゴジラからだった・・・モスラもいたかな)。


奄美大島に仲間とともに行ってきました。この時期、奄美大島は収穫を終えた「年末」にあたるのだそうで、盆や正月よりもこちらが村いちばんのにぎわい。われわれが行った龍郷町秋名の「秋名アラセツ行事」とは「山と海から稲霊(いなだま)を招いて五穀豊じょうに感謝し,来年の豊作を祈願する祭りです。夜明けと共に片屋根を揺り倒して豊作を祈る「ショチョガマ」と,秋名湾西岸にある「神(カミ)ヒラセ」と「女童(メラベ)ヒラセ」と呼ぶ2つの岩で豊作を祈る「平瀬マンカイ」があります」とのこと。まずはその写真。


Hanauma Bay
Last Sunday, when I was in Honolulu, I went to Hanauma Bay that was a kind of National Park and a famous snorkeling site. Where I saw many fishes and finally saw a big turtle. However, the water temperature was cold for me so I could stay less than thirty minutes.


Beautiful Hanauma Bay

 But cold in the water

Here comes the turtle

プラハの夢のホール「スタヴォフスケー劇場」
ここが映画『アマデウス』が収録された劇場。モーツァルトが3度もやってきて、ここでオペラを上演したのです。ここがその劇場なのかと思うと、感慨ふかいものがあります。はいってみると、予想外に小さい。ぐっと小さい感じです。しかし、舞台に引き込まれるように近く、そして「夢の空間」というにふさわしい、劇場としての「華」にあふれています。
調べてみると・・・世界中のオペラハウスの中でも、現存するものとしては最古の劇場だそうです。1787年10月にモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」が初演されたという栄光の歴史を誇り、「フィガロの結婚」や「魔笛」も大成功を収めたとあります。1791年には最後のオペラ「皇帝ティトの慈悲」も初演されたそうです。ううーん。プラハは、すごい。


これが夢の空間への入り口

夢のような空間

なかはこんなに小さい。

コンサートのあと、外にでると夕立がしていた。

モーツァルトがドンジョバンニを作曲したベルトラムカ荘
モーツァルトがプラハに三度滞在したことは有名です。そしてオペラ「ドンジョバンニ」の最後の部分を作曲したというベルトラムカ荘にいってみました。これがそのベルトラムカ荘ですが、思っていたよりは都心に近い。地下鉄で近くまではいけます。しかしそこは思っていたより、ちょっと荒れ果てています。旧共産圏から脱して20年。プラハはマクドナルドとスタバが席巻しています。反面、伝統的なチェコは苦戦しているのでしょうか。国際モーツァルテウム財団(おそらくザツルブルグ)と、チェコのモーツァルト協会が、ちょっとうまくいかなくなって、所有者のモーツァルテウム財団が中身を持ち去ったとか掲示されています。どうもトラブルがあるようです。ガイドブックに出ていたモーツァルトの遺髪なども、もはや展示されてありません。土地も小さくなっていますし、建物も、いたるところひび割れて、チェコの難しい側面を垣間見ました。


ベルトラムカ荘

このようにちょっと荒れ果て始めている・・・

台風16号が沖縄を通過、 現在、九州に近づいています。一昨日、ハワイから帰国する機中、台風接近にともなう大きな積乱雲をたくさんみました。まるで「天空の城ラピュタ」のような巨大な雲がつぎつぎに現れました。飛行機はその巨大な積乱雲のはじをぬうようにフライトしていました。この写真は、近年、まれにみる巨大な雲を機内から撮影したものです。
A very strong Typhoon is now coming to Kyushu. I saw a huge Cumulonimbus cloud on the way from Hawaii to Fukuoka.

 

富士山も見えた

昔からの友人の精神科医・三村將くん(慶應義塾大学医学部精神科教授)がEテレの「きょうの健康」に出演していました(2012/9/11-13)。お題はなんと「団塊の世代のうつ病対策」。詳しくはこちら。

http://www.nhk.or.jp/kenko/dr/2011/03/mimura-masaru.html

2012.05.14 毎日新聞メディア時評の反響がありました。

これはNHKのあるディレクターの方からの問い合わせについて、お答えして、私の考えを、より詳しく述べたものです。


 Tさん、私も、調査チームの一員として、現地に何度もいきました。また私の指導するインドネシアからの留学生がこの問題を4年間ずっとおいかけてきましたので、その論文指導の過程でいろいろと考えてきました。
が、議論百出で、けっきょく、みんな、どう考えて良いのか、考えあぐねているようです。
この状況をみて、私が考えたことを、毎日新聞のメディア時評と、中国新聞に書きました。
それは、次のような基本メッセージです。

 ◆第1・日本の論調は一方的です。日本側の都合しか述べていません。しかし、本質的に、これは、両方の思いと人の動きが関わる相互的なものなのです。来日するインドネシア人の側にたった視点、外国側からも見ようとする視点が欠けています。
田上さんのメールも、日本側がこれだけ努力している、費用もこれだけかかった、周囲の人もみんな熱心に努力した、でも、帰国されてショックだ、という日本の受け止め方に問題を触発されたのだと思います。もちろん、多くの関係者がショックを受けたのはよく分かります。
しかしこれだけでは、日本側から見た視点ばかりです。肝心のインドネシア介護福祉士候補者の心をくみ取れていません。彼ら・彼女たちは、もう来日直後から、苦しみに苦しんできていました。それを、われわれの調査チームは、ずっと追いかけてきました。日本が、日本の都合で、日本の制度、試験とか資格とか、押しつけてきたのです。これだけの制約をかけた上で、なお、将来の定住や家族の呼び寄せなど、生活の長期的な展望はなかなか描けません。日本の政策が、受け入れに否定的・限定的だからです。このような状況の中で、このうえさらに、今後も、日本の都合にあわせてインドネシア人を縛りつづけるのは、そもそも無理なのではないでしょうか。
「合格したが帰国」というのは、これまでインドネシア人の心の奥を聞き取ってこなかった日本側への暗黙の抗議が含まれていると思います。日本側は、日本側の思いと日本側の一方的な努力のことだけを論じているが、その中に、来日したインドネシア人の視点は入っていなかったのではないでしょうか。
 ◆第2・新聞にも書いたように、日本側の外国人看護師・介護福祉士にたいする態度は、ずっと建前と本音と分裂しております。インドネシア介護福祉士候補者は、そんなこととはつゆ知らずに来日しました。希望に胸ふくらませて。
しかし、それは4年間のうちに、インドネシア介護福祉士候補者に察知されないはずがありません。日本が本心から、インドネシア介護福祉士候補者を受け入れるつもりになっていたならば、今回のようなことは起こらなかったのです。いまだに、外交上の建前や外務省・経産省の論理と、厚労省が「人手不足対策ではない」といっていることは矛盾しています。日本全体が、総論賛成・各論反対、貿易の国際化は賛成だが外国人労働者は反対、などとなっています。国際化に関して「日本固有の論理」をもちだすのがいつもです。
日本側は、本音では、インドネシア介護福祉士候補者を受け入れるつもりになっておりません。その本音のメッセージを、インドネシア人たちが4年間のうちに理解したということが、今回の帰国問題の中核のひとつなのです。私はとうぜん起こるべくして起こったと考えます。この結果を、どう考えるか、というのは日本側の問題なのだというべきです。
 ◆第3・国際化に関して、私の私見を述べれば、外国人介護福祉士を、無制限にどんどん受け入れるべきだというものではありません。また、ぜったい受け入れるな、というものでもありません。今回の貴重な4年間の経験をみて、今後に生かすべきであると考えます。
私のところの留学生が各地のインドネシア看護師・介護福祉士候補者を個別にヒアリングしたりケーススタディしてきました。その報告をみると、ほんとうに受け入れるべき、優れた資質をもつ、優秀なインドネシア人がたくさん現れています。短期間に日本語も上達し、施設の人にも利用者にも、地域の人たちにも温かく受け入れられ、モチベーションも高い人材がたくさんいました。こうした人たちこそ、最先端の事例として、礼を尽くしても受け入れるべきだと思います。また、4年間やっても、日本語もスキルも上達せず、日本に溶け込めなかった人たちもいるので、その人たちには、ざんねんですが、帰国していただくほうが良いのだと思います。その人たちの帰国後の対応やケアなども、もちろん重要な課題ですが。こういう見極めや課題の整理ができるように、この4年間の経験を、貴重な「社会実験」のデータとして、今後の外国人受け入れ政策に生かしていくべきなのです。そういう建設的な論議がなされているでしょうか。のっぺらぼうな外国人介護福祉士がいるわけではありません。適正も能力も人柄もみんな一人一人ちがった個性的な人間なのです。良い人は積極的に受け入れていくべきだと思います。じっさいに介護現場は人手不足なのですから。
ほんとうに深刻な人手不足になってから、急に外国人を受け入れようとしても、そうかんたんにはいきません。切羽詰まってからでは、良い人がくるはずがありません。追い詰められてからの受け入れというのは、最悪の選択なのです。そのことが論議されていません。
だから、この4年間の経験は、ものすごく貴重なデータだったはずなのです。何百人という個別の事例のデータを今後に生かすために蓄積されていたでしょうか。
 ところが、日本の対応は、全員を一律に扱って、けっきょく、優れた人材も、優れていない人材も、いっしょくたに扱って、本音のところ、「いまは、まだ、日本が外国人を、介護現場に受け入れる時期ではない」という強いメッセージとともに、彼らを追い返してしまったのではないでしょうか。これでは、まったく、なんのために多額の税金や関係者の努力がなされたのでしょうか。壮大な無駄づかいにして、日本は本音と建て前とが分裂していることを世界に知らしめたことにほかなりません。
この国際化の時代に、日本は変わるべきなのに、変われなかった、ということを示してしまったのではないでしょうか。
インドネシアなど東アジア諸国にたいして、日本は優秀な外国人の行くべき国でない、ということを伝えてしまったのではないでしょうか。
だとしたら、私たちが考えている以上に、これは世界に、日本の失敗を示してしまった深刻な事件なのです。
 ◆第4・私のところで学んでいるインドネシア人留学生も、このテーマを論文にしようとして、4年間、たくさんのケーススタディを行い、その結果、たいへん悩んでしまいました。インドネシア介護福祉士候補者たちは、来日早々から、ものすごく不平不満や苦情をいっていたのです。身近な日本人には黙っていましたが。このように、日本とインドネシアの間に誤解や落差が当初からたくさんありました。ところが、日本側は、日本の建前を述べているだけでした。その狭間で、現場のインドネシア人たちがいちばん悩みました。優しい良い人たちなので、あまり表に出しませんでした。しかし心では不満をつのらせていました。私のところの留学生にも、たくさんの苦情相談をなげかけてきました。私の留学生は、その矛盾とギャップの深さに、ほんとうに泣きだしていました。私がみていても、日本側は、インドネシア人の声を真摯には聞き取っていません。あくまで、日本の制度のこと、日本の法律のこと、日本の建前のことを、一方的に述べてきただけだけだったのではないでしょうか。これではだめだと、インドネシア人たちが思って、優秀な人こそ、率先して帰国してしまったのではないでしょうか。それが今回の悲劇的な事件だったのではないでしょうか。
 苦悩するインドネシア介護福祉士候補者の内声をこそ、マスメディアも取り上げるべきだったと思います。

 



私も企画委員をつとめる福岡ユネスコ協会の講演会が9月29日、新しい電気ビルのホールで開催されます。
「考える人 鶴見俊輔」というタイトルで、ご本人は病気療養中のため出席されませんが、かわりに「書く人 鶴見俊輔」と題して著名な評論家・加藤典洋さんが、「行動する人 鶴見俊輔」と題して鶴見俊輔さんと多くの共著のある黒川創さんが、講演されます。お二人の講演のあと質疑応答があり、私が司会をする予定です。詳しくは、このチラシをごらん下さい。


鶴見さん0929チラシ

ハワイ大学で開かれているハワイ老年学会にきております。昨日は、サイトビジット(現地見学)に参加して、ハワイの様々な介護老人施設を訪問してきました。今回は、ナーシングホーム(日本の特別養護老人ホームや老人保健施設など)ではなく、ケア付き住宅を中心に見学先をアレンジしたとのこと。ハワイの中でも有料な「アシステッド・リビング」や「メモリーケア」といった施設を見せてもらいました。まず呆然とするのは、その価格。すべて民間の有料老人ホームというような位置づけになるので、個室ワンルームでは月額40万円以上から80万円くらいまで。ついため息が出てしまう。入居者は日系の人たちが中心。ちょうど家族が来ていたので聞いてみると、民間の保険に入っていた(年間60万円くらい払っていたそうです)のでそれで三分の二くらいはカバーされ、あとはソーシャルセキュリティ(アメリカの年金のようなもの)やペンション(年金)などで95%まではカバーできる、と語っていた。でも政府や行政からの支援や補助その他は一切なく、高齢者施設に入居すると原則としてすべて個人払いになる。訪問したところはみなそうでした。たしかに美しくきれいですばらしいが、おカネがなければどうしようもない、というアメリカの現実を、まざまざと見せつけられる思い。でも、世界的に「自己責任」とか「自由化」とかの流れで、「小さな政府」「公務員のムダ」、はては税金の話になっていって、やがて公的な医療保険や介護保険も、どうなるか分からない、そして家族は小さく共働きになると、家族介護は成り立たない、公的な施設もないとなると民間のこのような介護付き施設しかないということになるのでしょう。さて、税と社会保障の一体改革などと言いながら、いったいどうなるの改革、というほど混迷している日本の現実を見ると、アメリカのような市場主義が、老後の世界の現実になるのも、ありえないことではない。

ドイツ最後の数日間をレンタカーしたのですが、狐にばかされたような不思議ないきさつで乗ることになった新車のベンツ(いきさつは以前のエントリーを参照)。どうしてなのか、いろいろ、考えてみた。
もっとも合理的に説明できそうな理屈は「ライプチヒに待機させておくより、より顧客の多いフランクフルトに運んでもらいたかったから」ではないだろうか。そのほうがレンタカー会社としても合理的なメリットがある。ライプチヒも発展中とはいえ、旧東独で、市場規模はフランクフルトの比ではないから。フランクフルトに、客に運んでいってもらって、そこでレンタカーとしてより稼働したほうが会社にとっても合理的ではないだろうか。
そういえば15年くらい前にも、カナダのカルガリーからエドモントンまで1週間くらいレンタカーをした時に、いちばん小さなクルマを予約してあるはずが、巨大なピックアップトラック(5リッターくらいある巨大な戦艦のようなやつ)に乗っていってくれ、と言われたことがあった。これには参りました。なにせ燃費が極悪(リッター2,3キロくらい)だし、巨大で取り回しが悪くて、まるで飛行機か宇宙船を運転しているようだった(背後から聞こえるゴオーッというエンジン音は飛行機にそっくり。とてもクルマとは思えない)。とうてい日本では運転しきれない代物ですが、カナダのロッキー山脈の中だと不思議にこすりもせず運転できた。あれも不思議な体験だったが、考えてみれば、レンタカー会社は、移動費とガソリン代を、私にもたせたことになる。なるほどなぁ。