From the monthly archives: "8月 2019"

8月15日が近づき「日本のいちばん長い日」(岡本喜八、1967版)をみました。2時間半以上の大作です。驚いたことにシネラでこんなに多くの観客をみたことがない、というくらいに多数の観客がつめかけていました。長いけど長くない。行き詰まる緊張。三船敏郎の阿南陸軍大臣が抜群にいい。ついで笠智衆の鈴木貫太郎首相。そして反乱軍の中心人物を演じた中谷一郎。
2015年版も話題のようですが、この岡本喜八版もすごいですね。1945年8月14日から15日にかけて、こんな226事件のようなことが起こっていたのか。知らなかったことばかりで驚きの連続でした。
ところで、この映画、全編「国体護持」を巡っての議論と攻防戦なのですが、まったく出てこないのが、戦争責任や苦しみに苦しみぬいた国民への謝罪の意識。最後の最後まで「天皇の戦争」で、国民なんか意識の中にはなかったということでしょうか。国民への謝罪もないのだから、当然、アジア諸国への謝罪もない。それが戦後70数年たっても、アジア諸国との軋轢として尾を引いていますね。
ところで、この映画、昭和天皇も見たそうです。どんな気持ちで見たのでしょうか。



映画の中では、ポツダム宣言を受け入れるかどうか、つまり「敗戦」を受け入れるかが問題なのに、陸軍は「本土決戦」をちらつかせながら、どう敗戦でなく「終戦」と言いかえるかを真剣に議論しています。その結果、客観的にみれば「敗戦」なのに、主観的には「終戦」になっています。このねじれが、現在にいたるまで、日本の戦後処理の問題になりつづけている気がします。

沖縄の粟国島を舞台にした、じつに沖縄らしい映画「ナビィの恋」(1999)を観た。もう20年も前の映画だ。主役の二人、平良とみと登川誠仁も、すでに亡くなっておられる。この映画、観てみようと思わせたのは、沢木耕太郎の映画評である。『シネマと書店とスタジアム』と『銀の森へ』の両方に収録されている。
沢木耕太郎が書いていたな、くらいであまり考えずに見始めたところ、これは深く、面白い映画だということがすぐに分かった。見終わったあとで、あらためて沢木耕太郎の映画評を読むと、これがじつに正鵠を得ている。「この映画は、ナビィ(平良とみ)の恋のように見えて、じつは、恵達(登川誠仁)の恋の物語である」と述べているのだ。まさにそのとおりだった。表面的にはこの映画は、79歳のおばあ(ナビィ)の初恋のおじいとの逃避行、という筋立てなのだが、それでは受け狙いの底の浅いストーリーだ。とても説得的な脚本とは思えない。そうではなくて、この映画が、恵達のナビィへの想いの深さを描いた映画だとすれば、これはじつに深くて沖縄的な説得性をもった映画と見えてくる。
沢木耕太郎も書いていたが、役者の平良とみ(「ちゅらさん」の有名なおばあ役)を上回っているのが、唄者の登川誠仁なのだ。登川誠仁ぬきには、この映画は成り立たなかっただろう。その点でも沢木耕太郎の映画評は慧眼だった。
付け加えれば、「ちゅらさん」は波照間島の話だった。粟国島はさらにそれよりも話題になりにくい離島である。こうした離島にこそ、楽園がある、というメッセージでもあるだろうか。おそらくそうとばかりも言えないのだろうが、しかし、この映画を観たあとでは、そう信じたい、そう信じてあげたい、という気持ちにつき動かされる映画なのだ。


中村哲さん(ペシャワール会、PMS、九州大学特別主幹教授)の講演会が、九州大学伊都キャンパスの椎木講堂でありました(2019年8月5日)。中村さんの講演を直にきくのは初めてでした(EテレやYouTubeでは何度も聞いたことがありますが)。その人柄そのもののように、てらいや誇張のない、しかし深いお話しだったと思います。残念なのは、学生の参加が少なかったこと。ちょうど学期末の試験週間で、学生たちは試験の最中か、もしくはすでに夏休みに入って伊都を離れてしまったのでしょうか。学部生や院生こそ、聞くべき内容だったのに、と思います。


シネラで手塚治虫と虫プロの初期作品を観ました。印象は……微妙ですね。
まず「記念すべき虫プロの第一作」という「ある街角の物語」(1962)。わずか39分の作品ですが、この39分が、途方もなく長く感じられました。いろいろと実験的な試みをしているのでしょうが、音楽とアニメーションだけのこの映画、いったい手塚治虫が何をしたかったのか、分からない。相当な意気込みと費用と時間をかけて作ったのでしょうが、そこまでして作りたかったものが……分からない。なぜ、この作品を作ったのか、アニメーション制作のための会社まで作って……その意図が分からない、そういう作品でした、私にとって。39分がとても長く感じられたのです。
ついで「展覧会の絵」(1966)。これも言わずと知れたムソルグスキーのオーケストラ作品にアニメーションを乗せたものです。ディズニーの「ファンタジア」の向こうを張ったものと解説されているのですが……これも、分からない。手塚の才気は見えるし、面白い場面もあるのですが、全体として、なぜこの作品が作られなければならなかったのか、なぜ手塚はこの作品を作ったのか、それが分からない。
音楽だけなら、こんなことはない。音楽にアニメーションが乗ったとたん、しかも音声やセリフ抜きのアニメーションだった場合には、1+1が2になるのでなく、なぜか、マイナス2になったような気分です。これ、不思議ですね。じつに不思議な気がしました。


「ある街角の物語」(1962)

「展覧会の絵」(1966)

夏休みの親子むけ映画特集ということで、シネラでは、なかなか渋いアニメ映画のラインアップです。
まずは、高畑勲監督の「太陽の王子、ホルスの大冒険」(1968年、東映動画)。これ、じつに興味深い映画です。子ども映画だが子ども向け映画ではない。ジブリ以前の高畑勲さんや宮崎駿さんの姿がくっきりと浮かび上がってきます。制作された時代背景がなにしろ1968年。悪魔に村を滅ぼされた村人たちが、ホルスという外来の貴種(太陽の王子!)の活躍によって立ち直っていく。しかしホルスは途中で何度も村人に裏切られたりしながら、村人を信じ続けて悪魔を倒す。重要な脇役として、悪魔の妹が、悪であることに懐疑をいだき、悪になりきれず、兄を裏切ることで、善玉王子たちが勝利する。その勝利の仕方は労働者たち(村人)の団結と連帯である……なるほどねぇ。高畑勲さんや宮崎駿さんは、こういう世界観の中から生まれ育ち、やがてジブリ的な世界観をもった映画監督になったんだなということが分かります。この映画って「千と千尋の神隠し」の世界観とは真逆ですからね。
宮崎駿さんは40年かけて「ホルス的世界観」(それはハリウッド的な世界観でもある)をひっくり返して「千と千尋の神隠し」へと到達したんだなぁ、ということを深く考えさせられました。