From the monthly archives: "8月 2012"

思い出すままに、いくつか列挙してみます。

1 ドイツは風力発電にものすごく注力しています。ライプチヒからフランクフルトまでアウトバーンだけでなく田舎道もいろいろ走りましたが、麦畑のなかに林立する風力発電の数にはびっくりさせられました。ドイツの脱原発は有名ですが、本気で風力などにも注力しています。走りながら、ナウシカの風の谷を思い出していました。ドイツはいまナウシカのように風の谷になりつつある・・・?
2 東西ドイツの統一が進んでいるが、歪みもある。今回はほとんど旧東独を動きました。ライプチヒでは「カールマルクス大学」が「ライプチヒ大学」になって、町の中心に超モダンな高層ビル大学になっていました。はんめん、私の滞在した中央駅からトラムで3駅ほどの地区は、あきらかに荒廃しはじめていました。かつては立派な建物だったのが、いたるところ、落書きがされ、窓が割られて、一見して危険地帯になりつつあるのが分かります。周囲にはアラブ系の店が多くて、都市社会学でいうところの「遷移地帯」になっているのです。旧東独時代の施設や空間は、どんどん「遷移」して飲み込まれていくのだろうなぁ。
3 ベルリンでは東ベルリンが急激に発展しています。私の滞在したホテルは、まさに「壁」の近く。かつて壁の周囲にあった空き地は、いま、急速に開発の対象になっていて、もうれつな建築ラッシュです。私の滞在したホテルの部屋の真向かいがまさに建築中で、朝は7時前から作業がはじまり、夜は7時まで、土日も作業しているという、ちょっともうれつな状況でした。ベルリン中心部も、旧東独時代の「共和国宮殿」などは取り壊され、いま、新しく建て替えられつつあります。
4 博物館や美術館は、館員が、いまだ、前の時代の職員のようで、つねに「監視」モードなのが、おもしろいです。つねに見張っていて、人民を監視していた時代の流れは、すぐには変わらないのですね。
5 マクドナルドがどの町にも林立。アメリカのファストフードが猛烈に浸透している。でもハンバーガーは「ハンブルグ」から始まったのではなかったか。ハンバーガーの発祥地だから、なじみやすかったのか、いずれにせよ、ドイツのマクドナルドの浸透ぶりにはびっくり。
6 「写真撮影料」をとる博物館、美術館が多いのにびっくり。払うとシールをつけてくれる。それがないと監視員がすぐにとんできて「注意」する。でも、みんなキャノンなどの一眼レフをもってる人は払っているが、「iPhone」で撮影料はらわずぱちぱちやってる人も多かった。携帯電話ですぐに写真がとれる時代。美術館や博物館も、撮影禁止できなくなっていますね。
7 アウトバーンで渋滞した時、若者たちが車からおりて、路上でビールのんで、騒ぎ始めた。フーリガンみたいな無法のがこんなにいるのを実感。しかもドイツのアウトバーンには「autohof」だったかな、ドライブインがたくさんあって便利なんですが、そこでは、ビールや酒類を盛大に販売している。町でもみんな盛大にビールをやっているし、こんなに酒類にたいして敷居が低くてよいのかと思ってしまう。アメリカでは、まず、ぜったいに考えられないことですね。公園などで酒類をのむなどもってのほかだったからなぁ。そもそも土日は酒類など販売していない(できない)し(マサチューセッツなど)。

朝、ゆっくりおきて、バウハウス博物館(ワイマールがバウハウス発祥の地なんです)をみて、ゲーテ終焉の家から,広大な公園を歩いてゲーテがファウスト等を書いたという夏の小家へ(広大な美しい公園の中の東屋で、こここは風が涼しくて最高だった)、そのあとシラーやゲーテの墓場、ゲーテの愛人?シュタイン夫人宅などをめぐってから、さて、いざ、フランクフルト空港への最後のドライブへ。ワイマールから300キロあって、ホテルの人は、まあ、2時間半でしょう、などというが、そういうかんたんなものではない。ドイツ人じゃないからね。また旧東ドイツだから、道路はいたるところ工事中、いきなり2車線の狭い道になったり、トラック隊が路を占領していたり、なかなかスリリングな行程なんです。でも、やっぱり、ドイツのアウトバーン、みんないきおいこんですさまじい速さ競争をしている。こういうの、怖いし、どうしても、すきになれないなぁ。いちばん右車線はトラック中心で100キロ以下くらい、ここにいると、トラックに挟まれてけっこう怖い。ここはトラックの世界なんだぞと言われているみたい。そこで、真ん中のレーンへ。ここが、普通車で120キロ以上。しかし120キロだと、全員に追い越される。いちばんの左車線は、まあ、みんな150キロ超、よく分からないけど200キロちかいのもいる、という世界。なんだ、なんだ、これは。これは、とんでもない速さの階級社会であって、まんなかを120キロで走っていても、おまえ、住む世界が違っているぞ、そこどこそこどけ、というはげしい攻撃を受けることになる。とてもアグレッシブな世界ですね。攻撃的なクルマばかりで、日本より、よほど危ないと思う。最近のドイツ車、どれも顔つきがきつい。とくにアウディの最新のモデルはどれも人相悪いと思う。はっきりいって、とてもすきなれない。後からアウディがきたら、すぐにどきます。ベンツも、昔みたいにおっとりしてないし。なんというか時勢なんだろうか。ドイツでは、ほとんどまったく、トヨタみない。ホンダまったくいない。レンタカーでかろうじて日産がすこし。ドイツ車ばかりの世界。
昔すんでいたアメリカでは、高速道路でもみんな110キロ以上は出さなかったぞ。いやはや、ドイツのアウトバーン、なんど走っても、こわくてこわくて、好きになれないなぁ。けっこう事故も多いのはむべなるかな。ライプチヒでレンタカーをしてから最初の3日間で、2度も、大渋滞にまきこまれました。みんな事故処理の渋滞でしたらね。アウトバーン、けっこう、事故おおいのです。さすがのドイツ人でも、アウトバーンは事故多いぞ。こんな荒い運転していたら、当然さ、と思うけれど。
さて、ワイマールを午後2時にでて、ゆっくりはしって(しばしばあおられながらも)、ベンツのレンタカーのGPS の高い能力のおかげて、無事、フランクフルト空港に300キロを、3時間半かかってつきました。ああ、やれやれ。これ、GPSなかったら、とうてい、この時間内でたどりつけなかったかも。もはや海外ドライブはGPSなしにはなりたたない時代なのだなあ。いつものことですが、最後の難関が、最後の給油とレンタカーのリターン場所なんだけど、ここでは、さいわい、すぐみつかって、よかった。(給油は40キロ前で給油してまったくオーケー、そんなに近くで給油しなくてもいいのだ)。エイビスにたどりつくと、ベンツの新車ということもあって、係が、前後左右から、じっくりじっくりチェックしていた。でも、今回は、こすっていないから、大丈夫。(昨年は、小さな車だったけど、いろいろこすってたから、高額な修理代を請求されて青ざめたっけ・・・。ドイツ人は几帳面にチェックします。)
というわけで、ようやく、フランクフルト空港のラウンジでこのメールを書いています。
なんとか、ぶじに空港にたどりつけてよかった・・・

ドイツの発音は難しい。日本では、第一次世界大戦と第二次世界大戦間のドイツの共和制を「ワイマール共和国」と言っていると思います。その憲法が制定された古都ワイマールに来ています。ゲーテが宰相をしていたところ、バッハが宮廷につとめて大公とけんか別れしたところ(モーツァルトみたいだ)。でもWeimarとつづってドイツではヴァイマーと発音している。けっしてワイマールとは言わない。ううむ。なぜ日本ではワイマールという発音が定着してしまったのだろうか。つづりだけみて、じっさいの発音をしらない歴史家が、こういう発音を教科書に書き込んでしまって、それがわれわれにすり込みのように入ってしまったのだろうか。いずれにせよ、日本人には、ワイマールのほうが、はるかに受け入れやすい発音であることはたしかだ。でも、現地の発音とは、ぜんぜん違う。そういうことって、いろいろ、ありますね。ゲーテも、そのまま発音すると、ちょっとちがうし。社会学の巨人、ウェーバーだって、現地ではヴィーバーに近いし。

旅の最後の数日を、レンタカーをしています。
ドイツでレンタカーをするのは、何回目だろうか、4回目くらいかな。
毎回、思うのは、アウトバーンは、おもしろくないし、いやだ、ということ。
なんで、みんな、こんなにすっとばすのか、ドイツ人はみんな暴走族か、と思うほどとばしていますね。
こわい。
私は、だいたい、日本でも高速は90キロくらいが快適と思っているので、こちらでも妥協して100キロくらいでアウトバーンを走っていると、もう、これは最遅になっていて、どうも、具合が悪いらしい。右レーンで、周囲を巨大なトラックに囲まれてしまう。これも怖いし。
で、やっぱり、アウトバーンは、走っていても面白くないし、怖いし、できるだけアウトバーンはのりたくないという結論。
一般道のほうが、はるかに、快適で美しい風景をみながら走れるし(でも一般道でもドイツ人はみんなとばしているなぁ)。

これまで、十数回におよぶヨーロッパひとり旅ということで、苦労した経験は数知れませんが、今でも、ありありとその苦労を思い出すのは、ほとんど、レンタカーで苦労した経験です。
それも、ほとんどは、町についてから、ホテルに到着するまでの経験なのです。ヨーロッパでは町と町とを走るのにさして困難はありません。右ハンドルか左ハンドルかも、あんまり関係ありません。道は、すいているし、合理的で、田舎道など、とくにこれこそドライブの醍醐味だという至福のドライブが味わえます。問題は、街についてからです。そこからが、超難易度Eの体験のはじまりてす。
思い出すままに書き連ねてみます。
まず、ロミオとジュリエットの町、北イタリアのヴェローナ(日本人でクルマできたのはおまえが初めてだと言われた。ホテルの人がつきそってクルマ車庫につれていって、手取り足取り駐車場の入れ方を指示してくれて、ようやく・・・入った。こんなところに駐車できるのかー、不可能、と思われた駐車場。中世の荷物おきば。とにかく、クルマは動かさずに何度もハンドルをめいっぱい切ってから、ほんの少しクルマを動かす、というがポイントだった・・・)
ついで、グリューネヴァルトのあるフランスとドイツの国境の町、コルマール(中世の馬小屋が駐車場だった。とうてい私には入れることができず、SOSを発して、ホテルの人に入れてもらった。翌朝、自分でクルマをだすときには、こすってしまった! あとで修理代を請求された。こんなところ、駐車できないよ)。
そして、オーストリア、モーツァルトの町、ザルツブルク。(旧市街地、モーツァルトの生家のすぐ近くのホテル。そこには、入ろうにも、入り口に厳重なかんぬきがでている。途方にくれた。入り口の無線マイクで、ホテルに連絡すると、そのかんぬきがするするとぬけて、旧市街地に入れるしかけだった・・・そんなこと、いって叫んでみるまで、分からないぞ・・・)
もひとつオーストリアの古都インスブルック。(旧市街地の真ん中の、モーツァルトも宿泊したというホテル。どうやってもたどりつけない。途方にくれて、バスから降りてきた、バスの運転手にすがりついて、となりにすわってもらって、指示してもらって(英語がまったくはなせない、オーストリア語?、みぶりてぶりだけ)、ようやくホテルの近くに・・・そこでバス運転手はおりていってしまったのだが、そこからさき、さらに困難が待ち受けていた・・・思い出したくもない・・・なんでホテルに到達できたのか、いまでも分からない)
さらに、イギリスはウェールズのバース。(中世のローマ都市、お風呂のバース。ホテルは見えているのに、そこに到達できない・・・)
そして、イタリアの古都ヴェネツィア(もちろん、ヴェネツィアにはクルマでは入れない。そこでヴェネツィアに入る前に、レンタカーをリターンするのだが、おいおい、どこに返却すればいいんだ。それがまったく分からない・・・)。
こういうところは、思い出しても身の毛がよだちます。私が目的地に到達できたのは、幸運だったのか、もういちどやれと言われても、もはや、できないと思います。
こういうところは、はっきりいって、レンタカーなどしていかないほうが良いです。
有名な古い町は、列車でいけます。そしてついたら、そこからタクシーでホテルに行くべきです。
ところが、レンタカーでいってしまったのです。よりによって、古い古い古都のその都心にある、それもまた、小さな古いホテルに。
そこから、すべての困難が始まります。
(でも、すべての困難が、のちのち、忘れがたい思い出に変わる、というのも、これもまた真実なのです)

元九州大学の同僚で、今、同志社大学の今里滋先生がバルセロナに来ておられるようです。
私はプラハからドレスデン、ベルリーンからライプツィヒに来たところです。
バルセロナといえば、4年ほどまえ、バルセロナに来て5日ほど滞在したあと、レンタカーをして、カタルーニャ地方を、フランス国境までドライブしたことがありました。
バルセロナからのドライブは、今、思い出してもたいへんでしたが、はじめと終わりが、とりわけ、超難易度が高いです。町からでて、高速道路に入るとたん、ぐるぐる回っているうちに、どっちの方向か分からなくなります。今のようにGPSがあれば別でしょうが、いちばん小さくて安いランクのレンタカーをしていた私は、もう、これで行き先を見失い、大慌てで大汗をかきました。そして、最後に、帰国直前、夕方のフライトで日本へ帰国するという時に、バルセローナ空港についてレンタカーをリターンするのもまた難易度が高いです。どこに返却するのか、返却する前にガソリンも入れなければ、フライトまであと何時間、などといろいろぐるぐる頭がめぐって、たいへんでした。いま思い出しても、よく、あんなことが、短時間にできたなと、思います。ふつうの人には、できないのではないかと、いまでも思います。
さて、スペインといったら、パラドールですが、バルセロナから2時間くらいで、すばらしいパラドール、カルドナがありました。
これは中世の修道院をパラドールに改造したもので、どんなガイドブックにも出ていると思いますが、すばらしいものでした。(私は高坂知英のひとり旅の楽しみシリーズで、はじめてこのパラドール、カルドナを知りました。)
私は、バルセローナから旅だった初日と、帰国前日の最終日と、二泊しましたが、忘れがたいですね。
近くには、ワーグナーが楽劇の舞台にした奇岩城(いま名前を失念)もありました。
遠くからはるかに見える要塞山のうえのカルドナですが、クルマでいくと、最後の坂道がきわめて難しくて、細くてくねくねした登り道で、難易度Dなんですね。ここをうまく乗り切って駐車場に入れないと、パラドールの入り口にたどり着けないのですが、大汗かいて、ぎりぎり駐車できたことを、いま、思い出してもよく出来たな、もういちどいってまたできるだろうかなどと考えると、また汗かいています。

ドイツのバッハの町、ライプツィヒからです。
今年最高の暑さとかで36度だそうです。
ドイツの夏はひんやりしているときいていたのですが、きょうは、ちょっとものすごい暑さです。ひざしの強さも相当なもので、へとへとになってホテルにもどると、なんと、きょうは日曜日だから、レストランも休業で、何もないというのです。えええ。
おまけに東ドイツ(まだ濃厚に東ドイツなので)の日曜日は、もう、スーパーもなにもどんどん6時にしまってしまいます。ホテルのレストランまで日曜は休業ときて、まいってしまいますね。ひあがってしまいます。こまった。
近くをさまようと、こういう時こそ、異邦人たちががんばっています。あいていたのは、トルコ人の経営しているドナーケバブ屋さんです。そこで手作りのドナーケバブをテイクアウト。ヨーロッパで食べ物に困ったときには、アジア系か中東系かですね。ドイツ食より、むしろ、私たちには胃に優しい。
かつてバルセロナに1週間ほど滞在していたときも、安くてうまいので、ドナーケバブをしょっちゅう食べていたのを思い出しました。トルコの人たち、ヨーロッパの中でケバブでがんばっていますね。
きょうは、朝から、バッハがトーマスカントール(楽長)をつとめていたトーマス教会の朝のミサに出席。1時間半ほどのミサですが、えんえんと(まったく理解できないドイツ語で)説教がつづき、なるほど、このように毎週の日曜日に、バッハは、教会で、ミサと説教と音楽とが渾然一体となった生活をつづけていたのだと納得しました。バッハの音楽も、こういう教会の中の生活と切り離せないのですね。
でも、いやはや、みんな、まじめなクリスチャンばかりだと苦しくなりますね。ここライプチヒもキリスト教徒ばかりだったら、周囲が敬虔なルター派ばかりでも息がつまってきますね。バッハも、教会以外でも、コーヒーバウムという喫茶店まえで、公開コンサートをやっていたそうです。世俗曲のコーヒーカンタータがそれです。そ のコーヒー店ににもいってみました。
旧東ドイツも、体制崩壊後、ずいぶんと変化が進んでいますが、まだ変わりきらないところも濃厚に残っています。でも、バッハの頑固さとも似ている気がします。


 バッハが音楽監督をつとめたトーマス教会

トーマス教会内のバッハの墓


 

ベルリンに来ています。
旧東ドイツ地区に滞在していますが、まだ濃厚に旧共産圏の雰囲気が残っています。
ヒトラーが最期をすごした総統本部やナチの諸機関の本部があった場所を探して、周辺を歩いていました。
日本語のみならず、ほとんどのガイドブックには出ていませんが、こちら現地でガイドブックを入手して探してきました。
いまや、まったく面影もなく変貌していますが、ここが、20世紀の世界を、日本もふくめて、大きく変えたその中心だったのかと思うと、日本の終戦(敗戦)記念日にあたって感慨深いものがありました。

2012/08/15
朝早くドレースデンをたって、午前中にベルリーンに到着しました。
ここは、プラハやドレースデンと比べると、けたはずれの大都市です。
そして、旧東ドイツ地区は、どこもかしこも、大改造中。
すさまじい建築ラッシュ。
でも、どこか、なつかしい古びた町が、どんどん壊されていくようにも見えます。
今夜からのホテルは、旧東独地区の中心からはずれたところ。
地下鉄駅から5分くらいなのですが、周囲は、殺伐としていて、すべてがこわされ、殺伐としたなかでいろいろと建築中。
ちょっとこんなところに宿泊するんじゃなかったと後悔。
ホテルはモダーンなんだけれど、ホテルだけ。あと周囲には何もない。
こういう孤立した寂しさってのも、旧東独らしさなのだろうか。数年後には、もう味わえない殺伐感なのだろうか。
近くを歩いて、もよりの地下鉄駅までいっても、周囲は殺伐として何もない。
コンビニとか、そういう概念がない。昼からしーんとしてさびしいところ。
地下鉄にのって、アレクサンダープラッツ駅に買い出しにでかけなくては。

2012/08/14
今日、夕方、ドレスデン近郊の街、マイセンに行ってきました。電車で30分くらいです。
マイセン。あの高級磁器マイセンを生産している街です。
はじめてドイツに来たのは今から20年くらい前になりますが、その時、マイセンのコーヒーセットを奮発して買ったのを思い出します。
あれから20年間、マイセンは活躍しつづけてくれています。
マイセンが東ドイツにあることは知っていましたが、ドレスデンにこんなに近いとは思いませんでした。
中国や、日本の伊万里や有田にあこがれて、東インド会社を経由して大量に磁器を買い込んでいたアウグスト強王が、ヨーロッパで初めて磁器の製法を発見した錬金術師を、城に閉じ込めて、秘密がもれないようにして、マイセン城の中を磁器工場にして、ずっと生産してきたらしいです。すさまじいですよね。でも、日本でも韓国から陶工をつれてきて、有田や伊万里の奥山に幽閉していたのだから、同じようなことをどこでもやっているのでしょうか。こういうところでマイセンは生産されていたのです。古くて渋くて散歩しているだけで心楽しい町です。ついたのが夕方だったので、工場見学はできずに、ショップだけ見ましたが、あれもこれも買いたくなって困りました。でも本場ドイツのマイセンでも、マイセンは、高いです。買えませんでした。


 マイセン城

 

マイセンの町のショップ。あまりに高いので、かけらすらも売り物なのか?

マイセン工場

今日、午前中、時間があったので、モーツァルトがプラハで滞在して、ドンジョバンニを作曲したというベルトラムカ別荘にいってみました。ちょっと荒れ果てています。旧共産圏から脱して20年。プラハはマクドナルドとスタバが席巻しています。反面、伝統的なチェコは苦戦しているのかも。国際モーツァルテウム財団(おそらくザツルブルグ)と、チェコのモーツァルト協会が、ちょっとうまくいかなくなって、所有者のモーツァルテウム財団が中身を持ち去ったとか掲示されています。どうもトラブルがあるようです。ガイドブックに出ていたモーツァルトの遺髪などもありません。土地も小さくなっていますし、建物も、いたるところひび割れて、チェコの難しい側面を垣間見ました。


チェコ共和国のプラハに来ています。パリでの乗り継ぎがぎりぎりでした。からくも間に合ってプラハに到着したのですが、荷物がありません。さて、困った。ほかにもずいぶん荷物が到着しない人がいたようです。

次の便で到着すると思って、ホテルに移動しました。

ところが、翌日も、翌々日にも、荷物がとどきません。

エールフランスに電話してもらちがあきませんでした。

衣類だけでなく、ノートパソコンも、デジカメも、すべてスーツケースに入れていたので、これには参りました。

このまま、荷物なしに旅をつづけることになったらどうしよう、などと不安がつぎつぎにわき起こります。

カフカの街で、まったく不条理な世界に入り込んでしまったような気すらしました。

とうめん生活のため、歯ブラシやひげそりなどを買いに出かけましたが、この時ほど心細かったことは、ないですね。

夜にもホテルマンにエールフランスに電話してもらって、荷物が2日目の夜になっても、まだパリにあることが分かりました。少なくとも紛失はしていなかったので、ちょっと安心しましたが、ゆだんできませんでした。翌朝の1便で送るといっていたのに、その日の夕方になってもつきません。ようやく到着したのが、夜でした。

 

海外に出かけはじめて30年以上になります。毎年数回はでかけるから、相当な回数になっているはずですが、今回のような荷物の不着は、過去に一度、フィンランドであっただけです。その時は、真冬のフィンランドだったのでマイナス20度の世界で、着るものがなくて、寒い思いをしました。でも、その時は、フィンランドの現地の人に助けられて下着や歯ブラシを入手し、また荷物じたいも翌日には安着しました。

今回は、JALでパリにきて、そもそも、巨大なドゴール空港での乗り換え時間が短いなか、成田の発着がおくれてパリに1時間おくれで到着したという事情もあります。でも、JALもエールフランスも、こういうことではちょっと困りますね。ほかにも何人も荷物がこなくて途方にくれている人がいましたし。

また、もし忙しく移動するスケジュールだったら、どうなっていたのだろう。

そうしたことを考えると、なかなか、きもをひやすような事件でした。


城の中にある、カフカの仕事場

カフカの通ったギムナジウムの階段

かつてのギムナジウム、カフカの父の店のあったあたり

見田宗介著『現代社会はどこに向かうか-生きるリアリティの崩壊と再生』(弦書房)は、コンパクトなブックレットでありながら、ここには〈社会学〉がいっぱいつまっている。

これは講演会の記録である。一昨年、見田先生が福岡に来られて、福岡ユネスコ協会の講演会で話されたものの文章化なのだが、あの講演会の時の、不思議な読後感がよみがえってくる。

講 演が始まるまえ、私は、見田先生の話は、もっと骨っぽい、論理的かつ理論的なものになるのではないかと考えていた。見田先生の近著であった『現代社会の理 論』や『社会学入門』(ともに岩波新書)が、きわめて理論的な著作だったからだ。とくに『社会学入門』は、「入門」どころではなく、社会学専攻の学生とと もに一学期いっしょに読み進めたのだが、ほぼ全員が「分からない」「難解だ」といってさじを投げた経験すらある。(いまから思うと、難しい、というべきで なかった。とくに教師が難しいと思った瞬間、学生には理解は不可能になる。あるいは理解可能性がとたんに低下するのである。)

 

こ の講演は、まず二つの無差別殺人事件の対比からはじまる。40年前に起こったNの殺人事件と、2008年に秋葉原でおこったKの殺人事件とである。これは ともに青森県からやってきて社会の底辺部に位置づけられた男たちの殺人事件なのだが、対照的な点があるとして鮮やかに問題提起してみせる。Nの場合、周囲 が彼を見つめる「まなざし」が濃すぎる。それが彼の未来の可能性をことごとく引きずり下ろすような「まなざしの地獄」となる。このような「まなざし」から 自由になりたくて、彼は東京にきたし、やがて海外への密航も企てることにもなる。対照的にKの場合、彼に向けられた「まなざしの不在」こそが地獄である。 仕事のあと戻る部屋はしーんとして孤独だ。彼は誰からも必要とされず、誰からもコミットしてもらえず、ネット上に様々な書き込みをしても何の反応もない、 という不在さに耐えきれなかった。40年を隔ててた「まなざし」の意味変容を、あざやかに対比させたところに見田宗介の社会学センスの冴えがある。ふたつ の事件の対比や比較は、ほかにも可能ではあろう。しかし、もっとも〈社会学〉になるポイントを正確に一突きしている、そうではなかろうか。

なぜ、このような対比が、次の主題や問題提起につながるのか。

そこに「理想の時代」と「虚構の時代」という有名な時代区分が関わってくる。大澤真幸によってさらに「不可能性の時代」というその先の時代区分が付加されてさらに有名になったこの時代区分は、この現代社会をどうとらえるか、という観点から創出されたものだ。

見田宗介は、現代社会の現状をひとつの鮮やかなイメージで指し示す。「ロジスティック曲線」である。

S 字型をした奇妙な曲線である。これが、ある環境下における生物の爆発的な増大と限界、そしてその後の定常状態への変化を示しているという。なるほどと思 う。かつて周期的に現れた「不況」や「恐慌」が、これによって説明される。なぜ密林の生き物が一種類だけ爆発的にあらわれないのかも理解できる。

しかし物理的な環境だけが、生物や人間の限界を決めるわけではなかった。

「情報化」が、環境を突破するもうひとつの可能性だ。ここから「消費社会論」とつながる。

な ぜ長年、世界最大の企業はアメリカのGM(ゼネラルモータース)だったのか。それ以前のナンバーワンはフォードだった。フォードは堅牢で機能一辺倒のクル マをつくった。GMはそれにたいしてデザインと流行する魅力(つまり情報化)で対抗した。結果は、情報化の勝利で、定期的なモデルチェンジで「時代遅れ」 を作りだし、需要を創造した。クルマとしてはまだ十分に使えても、買い換えたいという人びとの消費の欲望をつくりだし、その結果、限界を突破した消費社会 をつくりだしたのだ。この情報社会化、消費社会化が、どこまで行けるか。

見田宗介は、近年の「サブプライムローン問題」がこの情報社会の崩 壊点を示すという。通常であったら住宅を購入できない貧困層の債権を、最新の情報ハイテク技術で複雑に債権かして世界に売った。債権の危険性は限りなくゼ ロに近くなり、情報化の力によって世界経済は潤う。ところが、ある時をさかいに、住宅ローンを支払いつづけられぬ人たちが雪崩をうってあらわれる。情報化 の力では押しとどめられないリアルな世界がどってなだれ込んできて、世界経済はどん底に突き落とされる。

見田宗介は、理想の時代のようなリアルな経済成長に支えられた時代、虚構の時代のように情報化や消費社会化で支えられていた時代が、いま過渡期を迎え、転換しているのだという。

一晩で転換するわけではない。何十年もかかって転換していくかもしれない。しかしロジスティック曲線の最後の段階に入っていることは明らかだと述べる。

このような大きな転換点の前期にいたN、後期にいたK。それぞれに生きるリアリティが異なっていた・・・。

このような卓越した手さばきによって、時代や社会の特徴や本質を取り出してみせる見田宗介の名人芸を、まずは〈社会学〉として堪能しよう。

何か、すぐに役立つメッセージやアドバイスがあるわけではない。しかし、この「現代」を、三次元的に把握するその手さばきにこそ、社会学の魅力がある。

 


ブックガイド

ひ とつの書に関心したら、その著者のものを、入手できるかぎりすべて読んでいく、というのは昔からある重要な読書術のひとつである。広く浅く読むだけでは手 応えがないし深まらない。広く浅くたくさん読む時期をへて、次には、これだと思う著者をぐーっと読み込んでいく段階がくるのだ。見田宗介は、現在、岩波書 店から『見田宗介著作集』が刊行中で、まさにこうした読み方に適した条件がととのっている。


『岡村理論の継承と展開2-自発的社会福祉と地域福祉』(牧里・岡本・高森編)

ミネルヴァ書房から、ようやく(原稿を提出してから何年になるだろう!)、『岡村理論の継承と展開2-自発的社会福祉と地域福祉』(牧里・岡本・高森編)が出版されました。私は第11章「福祉コミュニティと福祉NPO」を執筆しています。
http://www.minervashobo.co.jp/book/b102520.html
(ミネルヴァ書房には、他にも、ずっと前に、原稿を提出していながら出版されていないものがいくつもある・・・)

 

 

 


5月から毎月一度連載してきた、「毎日新聞メディア時評」も8月でいよいよ最終回となります。

毎日新聞メディア時評 2012年08月20日

「特集ワイド」の「原発の呪縛 日本よ!」という記事をもとに、メディア時評を書きました。8月20日に掲載されました。

また、これまでに書いた毎日新聞メディア時評については、新ホームページの中にPDFで掲載しています)


社会調査実習のガイドライン

【報告書の分量】
 各グループ 最低20ページ(あるいはそれ以上)
 (だいたいの目安として)
 ・アンケート調査の設計と集計、分析 5~10ページくらい
 ・フィールドワークの趣旨、内容、記録、考察、まとめなど、10~15ページくらい
 
【アンケート調査のパート】
 ・先行研究のレビューが必ず入ること(各グループ5冊以上は、あってほしい)
 ・アンケート調査の紹介と分析(単集結果の紹介、元になる調査(NHKなど)との単集レベルでの比較、クロス集計結果、カイ二乗検定、と分析(余力があれば多変量解析も)
 ・アンケート調査から分かってきたこと。
 ・アンケート調査では分からないこと。
 ・アンケート調査の振り返り。良かった点と反省点。
 ・今後の課題など。

【フィールドワークのパート】
流れ
 福岡最大の商業中心地、天神の「国体道路」周辺を、フィールドワークすることを通じて、地域の様々な問題や課題を発見する。
 (フィールドワークを通じて、様々な人たと出会い、様々な「社会的現実」を発見していくという社会調査実習の趣旨)
 今泉や警固、大名や薬院など、地域によって問題や課題が違うことを発見する
 町づくりをめぐって、様々なアクターが活動していることを発見する
 行政だけでも、商業者だけでもなく、地域の住民や、ボランティアなども、町づくりに参加していることを発見する
 町づくり団体、民生委員さんたちの団体、自治協議会、女性団体、ボランティア団体、公民館、様々な地域団体が、町づくりに関わっていることを発見する。
 インタビューを通じて、町の歴史や、町の変遷を把握する。
 フィールドワークを通じて、現在の町の変化や、そこにおこっている何を発見していく。
 問題があるとともに、それを解決していこうとする人びとや団体があることを発見する。
 こうしたことを見聞きし、だんだんと社会調査実習に参加した学生達も、どう変わっていったかを、自己確認していく。
 などなど。
 こうした流れのうえで、地域の様々な社会的事実や現実を発見し、その問題をどうすべきか、社会調査実習の参加者の目線で、考えて、提案をしていく。それこそが今回もとめられている「政策提言」ではないでしょうか。

・町づくり活動やボランティア活動している天神の人たちと比較して、自分たち若者の「社会参加」の現状や課題を考える(天神の町づくりに関わる人びとを調べることが、自分たちを考えることになり、自分たちの社会参加を考えることになる)
・若者が、国体道路周辺の町づくり(景観、美観、交通、自転車、地域住民、ビルや事業所など)を調べ「政策提言」する
(政策提言は、若者の視点からの提言であり、社会参加である)
というかたちで、「社会参加」を経験しながら、若者の社会参加について、自分たちを事例にして考える

 ・フィールドワーク調査
 ・天神調査の概要
 ・キーワード(地域の問題、地域住民、町づくり、景観、ボランティア、若者、地域社会,住民や住民参加…国道、道路政策、)
 ・1行政と町づくり(町づくり、放置自転車、道路にたいする住民からの要望、事業者からの要望,国道、道路政策、…)
 ・2ボランティア(道路や景観、植栽や緑化にかかわるボランティア動機、ボランティアの実態、属性、グループの機能など)
 ・3住民参加と町づくり団体や地域団体(警固公民館、警固自治会、自治体協議会、中央区、民生委員協議会・・・)
 ・4その他((例)大都市と若者、大都市の情報化と若者の消費行動、都心での若者の行動と・・・)
 ・インタビュー調査(二人以上で一組となってインタビューを行う。インタビューは、全部で10人かそれ以上をめざす)

きょうは、国土交通省福岡国道事務所のほうへ、学生たちがインタビュー調査にでかけました。

副所長の柳田さんから、さっそくメールが届きました。ありがたいことです。


「本日無事にアンケートインタビュー終了しました。

衛藤さん以下、6名来られて、午後1時から約2時間、当方は、富山事務所長と、国体道路を直接管理している、井本出張所長、宮本係長の
計4名で対応させて頂きました。

こちらも、あまり慣れないので最初はとまどいましたが、中盤から色々と質問も出まして終わりました。
成果はどうかわかりませんが、
「また、何かあったら遠慮なく聞いてください。」
「レポート報告会やってください」
「ボランティア団体との合同意見交換会等の企画があったら、相談してください」
と話しておきました。

◆聞いたら、15名ほど参加という事で、ほぼ全員の参加になったんですね。。
良い成果になるよう協力させて頂きますので、遠慮なくどうぞ。」