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8月15日が近づき「日本のいちばん長い日」(岡本喜八、1967版)をみました。2時間半以上の大作です。驚いたことにシネラでこんなに多くの観客をみたことがない、というくらいに多数の観客がつめかけていました。長いけど長くない。行き詰まる緊張。三船敏郎の阿南陸軍大臣が抜群にいい。ついで笠智衆の鈴木貫太郎首相。そして反乱軍の中心人物を演じた中谷一郎。
2015年版も話題のようですが、この岡本喜八版もすごいですね。1945年8月14日から15日にかけて、こんな226事件のようなことが起こっていたのか。知らなかったことばかりで驚きの連続でした。
ところで、この映画、全編「国体護持」を巡っての議論と攻防戦なのですが、まったく出てこないのが、戦争責任や苦しみに苦しみぬいた国民への謝罪の意識。最後の最後まで「天皇の戦争」で、国民なんか意識の中にはなかったということでしょうか。国民への謝罪もないのだから、当然、アジア諸国への謝罪もない。それが戦後70数年たっても、アジア諸国との軋轢として尾を引いていますね。
ところで、この映画、昭和天皇も見たそうです。どんな気持ちで見たのでしょうか。



映画の中では、ポツダム宣言を受け入れるかどうか、つまり「敗戦」を受け入れるかが問題なのに、陸軍は「本土決戦」をちらつかせながら、どう敗戦でなく「終戦」と言いかえるかを真剣に議論しています。その結果、客観的にみれば「敗戦」なのに、主観的には「終戦」になっています。このねじれが、現在にいたるまで、日本の戦後処理の問題になりつづけている気がします。

沖縄の粟国島を舞台にした、じつに沖縄らしい映画「ナビィの恋」(1999)を観た。もう20年も前の映画だ。主役の二人、平良とみと登川誠仁も、すでに亡くなっておられる。この映画、観てみようと思わせたのは、沢木耕太郎の映画評である。『シネマと書店とスタジアム』と『銀の森へ』の両方に収録されている。
沢木耕太郎が書いていたな、くらいであまり考えずに見始めたところ、これは深く、面白い映画だということがすぐに分かった。見終わったあとで、あらためて沢木耕太郎の映画評を読むと、これがじつに正鵠を得ている。「この映画は、ナビィ(平良とみ)の恋のように見えて、じつは、恵達(登川誠仁)の恋の物語である」と述べているのだ。まさにそのとおりだった。表面的にはこの映画は、79歳のおばあ(ナビィ)の初恋のおじいとの逃避行、という筋立てなのだが、それでは受け狙いの底の浅いストーリーだ。とても説得的な脚本とは思えない。そうではなくて、この映画が、恵達のナビィへの想いの深さを描いた映画だとすれば、これはじつに深くて沖縄的な説得性をもった映画と見えてくる。
沢木耕太郎も書いていたが、役者の平良とみ(「ちゅらさん」の有名なおばあ役)を上回っているのが、唄者の登川誠仁なのだ。登川誠仁ぬきには、この映画は成り立たなかっただろう。その点でも沢木耕太郎の映画評は慧眼だった。
付け加えれば、「ちゅらさん」は波照間島の話だった。粟国島はさらにそれよりも話題になりにくい離島である。こうした離島にこそ、楽園がある、というメッセージでもあるだろうか。おそらくそうとばかりも言えないのだろうが、しかし、この映画を観たあとでは、そう信じたい、そう信じてあげたい、という気持ちにつき動かされる映画なのだ。


中村哲さん(ペシャワール会、PMS、九州大学特別主幹教授)の講演会が、九州大学伊都キャンパスの椎木講堂でありました(2019年8月5日)。中村さんの講演を直にきくのは初めてでした(EテレやYouTubeでは何度も聞いたことがありますが)。その人柄そのもののように、てらいや誇張のない、しかし深いお話しだったと思います。残念なのは、学生の参加が少なかったこと。ちょうど学期末の試験週間で、学生たちは試験の最中か、もしくはすでに夏休みに入って伊都を離れてしまったのでしょうか。学部生や院生こそ、聞くべき内容だったのに、と思います。


シネラで手塚治虫と虫プロの初期作品を観ました。印象は……微妙ですね。
まず「記念すべき虫プロの第一作」という「ある街角の物語」(1962)。わずか39分の作品ですが、この39分が、途方もなく長く感じられました。いろいろと実験的な試みをしているのでしょうが、音楽とアニメーションだけのこの映画、いったい手塚治虫が何をしたかったのか、分からない。相当な意気込みと費用と時間をかけて作ったのでしょうが、そこまでして作りたかったものが……分からない。なぜ、この作品を作ったのか、アニメーション制作のための会社まで作って……その意図が分からない、そういう作品でした、私にとって。39分がとても長く感じられたのです。
ついで「展覧会の絵」(1966)。これも言わずと知れたムソルグスキーのオーケストラ作品にアニメーションを乗せたものです。ディズニーの「ファンタジア」の向こうを張ったものと解説されているのですが……これも、分からない。手塚の才気は見えるし、面白い場面もあるのですが、全体として、なぜこの作品が作られなければならなかったのか、なぜ手塚はこの作品を作ったのか、それが分からない。
音楽だけなら、こんなことはない。音楽にアニメーションが乗ったとたん、しかも音声やセリフ抜きのアニメーションだった場合には、1+1が2になるのでなく、なぜか、マイナス2になったような気分です。これ、不思議ですね。じつに不思議な気がしました。


「ある街角の物語」(1962)

「展覧会の絵」(1966)

夏休みの親子むけ映画特集ということで、シネラでは、なかなか渋いアニメ映画のラインアップです。
まずは、高畑勲監督の「太陽の王子、ホルスの大冒険」(1968年、東映動画)。これ、じつに興味深い映画です。子ども映画だが子ども向け映画ではない。ジブリ以前の高畑勲さんや宮崎駿さんの姿がくっきりと浮かび上がってきます。制作された時代背景がなにしろ1968年。悪魔に村を滅ぼされた村人たちが、ホルスという外来の貴種(太陽の王子!)の活躍によって立ち直っていく。しかしホルスは途中で何度も村人に裏切られたりしながら、村人を信じ続けて悪魔を倒す。重要な脇役として、悪魔の妹が、悪であることに懐疑をいだき、悪になりきれず、兄を裏切ることで、善玉王子たちが勝利する。その勝利の仕方は労働者たち(村人)の団結と連帯である……なるほどねぇ。高畑勲さんや宮崎駿さんは、こういう世界観の中から生まれ育ち、やがてジブリ的な世界観をもった映画監督になったんだなということが分かります。この映画って「千と千尋の神隠し」の世界観とは真逆ですからね。
宮崎駿さんは40年かけて「ホルス的世界観」(それはハリウッド的な世界観でもある)をひっくり返して「千と千尋の神隠し」へと到達したんだなぁ、ということを深く考えさせられました。


参院選に向けていろいろな議論がなされています。大きな話題のひとつは、今回もまた投票率の最低を更新するのではないか、とくに若者の投票率がどこまで落ちるか、ということだと思います。選挙のたびに、ゼミや授業でもこの話題を、学生とディスカッションするのですが、意想外の答えが出てきたりして、なかなか面白いのです。大学1,2年生からは「感心がないわけではないが、何も知らない私たちが投票していいものか、責任感が重くて投票できない」など。これは意想外でしたね。
さて、その後「思考実験」をしてみたのです。「このまま順調に投票率が下がり続けると、最終的に、どこまで落ちるだろうか」「国政選挙なのだが、投票者ゼロということはありうるだろうか」「投票者がたった一人の場合でも、選挙というのは成立するだろうか」「投票率がどこまで下がると選挙の正統性が失われるだろうか」などなど。
かつて柄谷行人は「選挙などやめて、くじ引きにしたら良い」という大胆な提案をしていました。現状をみていると「選挙よりもくじ引きのほうが民意を反映する」という皮肉なパラドクスが、にわかに現実味を帯びてきたように思います。


先日のこと、用事のついでに中州を通りました。ちょうど山笠のはじまりの季節でした。自転車だったので、ついふらふらと面白そうな「人形小路」なる脇道へ入りました。昼間の中州は探検するとじつに面白いですね。まるで新宿のゴールデン街のような摩訶不思議な非日常の世界が広がります。
そこで「イエスの方舟の店・シオンの娘」という不思議な店に遭遇しました。昼間だったので営業はしていませんでしたが、その店がいまだに存在することに心底驚きました。「イエスの方舟」事件は、調べてみると1979年から80年のことですから、オウム事件のはるか前、すでに40年も前のことです。メディアでスキャンダラスに報道された後、今度は一転して千石イエスとその活動は、思想家たちから高く評価されたりしました。喧喧囂囂、こういう話題は評価が難しい、その後のオウム事件の報道にも影響を与えたとも言われています。「おっちゃん」と呼ばれた千石イエスは亡くなったようですが、その「娘」たちの「お店」がこうして中州の中に存在し続けていることに、心底驚いたのです。

(詳しくは朝日新聞の記事にもあります)


ここがイエスの方舟の店、シオンの娘

  人形小路という小さな通りに面していました

中州流の山があります


だいぶ前の記事ですが、朝日新聞の記事によれば、中はこんな感じのようです。いまでも、こんな雰囲気なんでしょうか。

6月30日に大阪府社会福祉会館にて「介護保険と非営利組織はどこへ向かうか」と題してお話しします。
これは認定NPO法人・市民福祉団体全国協議会のホームページに掲載された私の論文「介護保険と非営利はどこへ向かうか─小竹雅子『総介護社会』を読む」を読まれた方々が、もっと詳しく聞きたいとのことで、勉強会にお呼ばれしたのでお話しするものです。
「介護保険と非営利はどこへ向かうか─小竹雅子『総介護社会』を読む」は、介護保険が「成功なのに失敗」と位置づけられ、制度の持続可能性のみ追求されるようになり、当事者やNPO法人など民間非営利組織の意見など聞かれることなく制度改正が続けられていく現状にたいして、障害者福祉の立場からみると「現金給付」の意外な可能性があること、営利と非営利とをいちど混ぜてしまうと、元には戻りにくいこと、NPO法人は介護保険という疑似「市場」の外の可能性をもういちど考えるべきではないか、という問いかけの論文になっています。


私たちが定年退職後に「居場所」を求め、「生きがい」や「やりがい」を求めるとすれば、それは「シーク&ファインド」の試みにほかなりません。退職後のセカンドステージの「居場所」は、たんなる「居心地のよい場所」ではありえません。それはコール&レスポンスやシーク&ファインドが起こる場所、まさに、社会からの「呼びかけ」に耳を傾ける場所、つまり生きる意味を「シーク&ファインド」する場所に他ならないのではないでしょうか。ボランティア活動や様々な社会活動、それはたんに退職後の「生きがい」や「やりがい」を模索するだけではない。私たちの生きる意味そのもののシーク&ファインドではないのか。そういう暫定的な結論を申し上げて、講演をとりあえず閉じさせていただきました。


では「呼びかけ」を聴くということ、それはどういう経験なのか。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」がそのエッセンスを伝えています。ジョバンニは「銀河鉄道」に乗って宇宙の果てまで行こうとしたのですが、宇宙の果てまでいくことが目的だったのでしょうか。そうではないと思います。
「銀河鉄道」の中で、死者の語る「声」に耳を澄ませていたのではないでしょうか。つまり「銀河鉄道」は死者からの「呼びかけ」を聴く場所、まさにコール&レスポンスの起こる場所だったのではないか。宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」も、宮沢賢治を非常に意識しつつ、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を現代社会の中で乗り越えたいという強い想いから作られた映画と言えます。「千と千尋の神隠し」では「神隠し」のこのセカイの中で、カミは天空にいるのではない、宇宙の果てにいるのではない、むしろこのセカイの中に、このセカイの奥深くにこそいるのだ、そういう世界観を描いているのではないでしょうか。湯屋という現代の歪んだセカイから脱出した千尋が「水中鉄道」に乗るのは、そのためではないでしょうか。千尋もまた、水中鉄道の中で死者からの「呼びかけ」に耳を澄ませているのではないでしょうか。


続いて「定年とは何か、定年をどう乗り越えるか」を考えると……「コール&レスポンス」と「シーク&ファインド」(村上春樹)が重要になる。ジャズ音楽のエッセンスであるアドリブ演奏は、コール&レスポンスが基本。前奏者にコールされることによってレスポンスが生まれて続いていく。音楽の神様に「呼びかけ」られることによってクリエイティブなレスポンスが生まれる。これって「ボランティア活動」が生まれる基本メカニズムではないのか。誰かに「呼びかけ」られること、もっと言えば「社会」や神からの「呼びかけ」を聴くこと、聴けること、これこそ退職後の「生きがい」や「やりがい」を持てることの基本的なメカニズムなのではないか……そう論じました。


宮崎県立西都原考古博物館で「定年と諦念を超えて─セカンドステージと居場所づくり」というお話しをさせていただきました。私たちは「定年」をあたかも年齢による自然現象のように諦めとともに受け入れてしまうけれども、宗教的な国アメリカではそうではない。人種差別や性差別と同じく「年齢」による「年齢差別」であるとされる。ここはなかなか考えどころ満載のポイントなのですね。宗教的な次元にたって考えれば、神から与えられた人権を、人間がかってに奪おうとしているということになる。つまり「(神の)法による支配)」でなく「(企業という)人の支配」そのものだ。そこで「人間による人間の支配」に対抗するNPOという社会運動が起こる。それは世俗的なだけでなく宗教的な次元からも正当化される「教会のような協会」ということになる…「高齢者による高齢者のための高齢者NPO」は宗教的にも正当化される……。こういうイントロダクション、ちょっとあまりにもいきなりなので理解されるかなぁと思いながら話し始めました。つづきはまた。


先週は宮崎に講演をかねてNPO法人の見学に行ってきました。2日間にわたってとてもパワフルな宮崎のNPOを見学させていただきました。まず「みやざき子ども文化センター」では、その事業内容にも驚きましたが、最近では「子ども食堂」を支援。代表の片野坂千鶴子さんのお話しをうかがったあと、当日はちょうど来ていた「子ども食堂」のコーディネーターの黒木淳子さんにもお話しをうかがいました。さらにちょうど事業者の方が「子ども食堂」に支援物資を寄附されにきて、すこしお話しをうかがうことができました。なるほど「子ども食堂」にはまだまだ様々な可能性があることが分かりました。その後は障害者の自立生活を支援するNPO法人「ヤッドみやざき・PAみやざき」を訪問。ここではまず建物に度肝を抜かれました。事業高もさることながら、その事務所オフィスがただものではない。貧しく小さいNPOではなくて、むしろこれからの非営利組織の「夢」というか、NPOもここまで行けるのだ、NPO法人こそこういう夢を目指さねばいけないのだ、というビジョンを体現している団体だと感じました。さらに翌日は「ホームホスピス宮崎」と「かあさんの家」を訪問。理事長の市原美穂さんに、お話しをうかがったあとじっさいに「かあさんの家・霧島」を訪問して利用者家族やスタッフの方々にお話しをうかがいました……どれも他に類を見ないパワフルなNPOばかり。二日間、ほかではなかなか味わえない濃厚な時間でした。


いよいよ今週末に、宮崎県立西都原考古博物館での講演が迫ってきました。
前から考えていたストーリーに手をくわえてブラッシュアップ。
50枚ほどのパワーポイントを作りました。
退職後の人生──アメリカのNPOが参考になります。そこではジャズ音楽のような「コール&レスポンス」と、村上春樹的な「シーク&ファインド」が起こったのではないか。さらに映画「君の名は。」と「ララランド」を観ると、もっと分かるのではないか。そして、この高齢社会という壁からの脱出へ向けたヒントが「銀河鉄道の夜」と「千と千尋の神隠し」にあるのではないか。
これだけ読むと、訳がわかんないと思います。もっと知りたい方は、ぜひ、宮崎へどうぞ!


今年も東京大学・本郷キャンパスで「高齢社会総合研究学」の一回分として「高齢社会の国際比較─アメリカの高齢社会」の講義を行いました。今年の教室は法文2号館の1番大教室でした。この大教室は、この3月に仏文の野崎歓さんが最終講義を行った大教室でしたので、感慨深いものがありました。今年の学生さんたちは、社会学の学生のみならず、医療・看護系や工学系の院生さんたちもいたそうです。講義のあとに、活発に質問に来られる学生さんが何人もいて、うれしいことでした。


東京大学での講義の要旨は以下のようなものでした。
・先進国の中でもっとも「宗教的な国家」アメリカ、それなのに/それゆえに?「半福祉国家」「反福祉国家」なのはなぜか
・「高福祉・高負担」の北欧、「低福祉・低負担」の米国。この違いを、エスピン=アンデルセンの「福祉レジーム論」だけでは解き明かせない。
・そこで北欧の「ルター派」と米国の「カルヴァン派」という宗教原理の違いから解き明かそうとする研究が近年数多くでるようになった。
・アメリカで「政府による福祉」が好まれない理由、そのひとつが「カルヴァン派的な信仰」にあるのではないか
・Dパットナムらの『アメリカの恩寵』が、その解明の糸口を与える
・米国のNPO、とりわけAARPは、ある意味で「教会のような協会」となっていて、福祉政府の代替的な役割を果たしているのではないか。
・米国のNPOが、日本のNPOと大きく違うところ、それはレスターM.サラモンのいう「第三者による政府」あるいは「バーチャル政府」を形成しているところにある。
・政府とNPOの関係に関して、「二者関係」と「三者関係」の理論を導入してみる。すると見えてくるものがある。
・最後に、高齢社会の意味づけを考えてみる。日本の超高齢社会は、緩慢な「日本消滅」論になっていく。そしてこの「消滅」が「定年のような諦念」をもって受け入れられているのではないか。ある意味、無常感とともに。
・しかし、米国や西欧で、高齢社会のその先が社会の「消滅」である、というとらえ方は受け入れられるのだろうか。ありえないのではないか。「終末」ではなく「終末」としてとらえられることだろう。キリスト教的な「最後の審判」へ向けた「終末」論として。
・「消滅」対「終末」。こう対比すると、高齢社会の意味づけが、大きく違うことが分かる。高齢社会論は、たんに人口構造論ではない。高齢社会をどう社会が意味づけるか、それとも大きく関わるものである。(関心のある方は、私の著作のいくつかをご参照下さい。)


増村保造監督の「陸軍中野学校」を観ました。これで、今回のシネラの特集で上映された映画をほとんど観たことになります。この映画、なかなか……いや、すごく良かったです。市川雷蔵がすばらしい。冷酷・非情なスパイ、中野学校の第一期生を演じていました。内面なんかない、心なんか、ない。情など不要だ、そういう時代、そういう軍国主義のはじまりの時代の「空気」が、あつく、かつ、ひんやりと描かれていて、すばらしい。それにしても増村保造監督の軍隊の描き方は、思うところ相当あったのだと思います。軍人のダークでブラックな面を、これでもかというほどに、どぎつく、毒々しく描いています。心底からの軍隊憎悪が感じられます。あぁ、日本の軍隊って、こういうところだったのか、こんなに徹底的に嫌な世界だったのか、こんな浅いビジョンをもって世界と戦うつもりだったのか、などといろいろなことを考えさせます。中野学校の秀才たちが、上官のうそ寒いビジョンに共鳴していって、教官以上にその「空気」に染まっていくところも怖ろしい。そういう意味で、これはみごとな、反戦映画、反軍隊映画、反暴力映画なのでしょうね。それにしても、小川真由美の描き方などもふくめて、この映画は、見所満載でした。しかもテンポよく、へたな心理説明なし、理由説明なし。非常に非情。クールで冷酷。これは増村保造と市川雷蔵の一二を争う名作だ。


5月22日、九州大学大学院人間環境学府の「シリーズ人間環境学」というリレー・レクチャーで、私は「千と千尋の神隠し」講義を行いました。ほぼ満員の教室でした。講義は、みんな熱心に聞いてくれたようです。ちょっと教室が狭かったですね。
大学院人間環境学府では、かなり留学生が多いのですが、「千と千尋の神隠し」を観たことがない学生は、わずか2名だけでした。さすが日本を代表する映画なのですね。みんな観ているんだ。
講義のポイントは「グローバル化で変調した日本をどう考えるか」、とりわけ「ブラック企業の世界をいかに脱出するか」。そのための対抗策として「銀河鉄道と水中鉄道」を解読する。なぜ「銀河鉄道」や水中鉄道は、解決の糸口を与えてくれるのか。いや、宮崎監督は、「銀河鉄道」を相当意識していて「銀河鉄道」とは真逆の発想で「水中鉄道」を考えたにちがいない。そのポイントはどこか、そのあたりを話しました。後半部は、現代の世界の対立図式を「ハリウッド映画やアメリカ的世界観への対抗」ととらえてみました。ハリウッド的、アメリカ的な問題対決の図式を超えようとする意図がこの映画に込められていたにちがいありません。この世界の歪んだ象徴として「湯屋」を考えると、「湯屋の世界をなぜ革命しないのか」という問いが出てくるでしょう。なぜ千は湯屋を変革しなかったのか。当然予想されるその問いへの宮崎監督の渾身の「解答」が、最後のシーンに込められているのではないか、と話しました。「正解のない世界をどう生きるか」。そういう深いメッセージのある映画なのではないか、そう問いかけて講義を終わりました。


こんなにぎゅうぎゅう詰めの講義は珍しい。しかも、全員大学院生への講義。留学生が多いので、みんな熱心なのかな。日本人だと、こんなに最前列まで座ることは、まずないですからね。

教壇が狭いうえ、こんなに近くまで学生が座るので、かなり圧迫感がありますね。

スライドは50枚、でも、もっとあっても良かったかな。

講義のあと、何人かの留学生が質問にきました。「ハクは、どうなったんですか」。そう、学部生への講義の時にも、いちばん質問がでたのは、ハクの件。みんなハクにすごく親近感をもっているんだね。うーん、正直、私はハクのこと、あんまり考えたことなくて……次回までにもういちど考えてみよう……

 

5月21日、福岡国際会議場で開かれた「日本病院ボランティア協会・福岡研修会」で午前の部の講演を行い、その後の病院での事例報告や全体ディスカッションに参加しました。約30名の参加でしたが、皆さんたいへん熱心でした。参加者全員が、それぞれの現場での問題や課題を具体的にご報告くださったので、午後の部もたいへん有意義なものになりました。こういう機会が、もっとあると良いですね。 


日本病院ボランティア協会のウェブサイト


愕然としました。加藤典洋さんが亡くなられました。昨年秋から体調を崩されていたそうですが、知りませんでした。ここ数年、猛烈な勢いで著書を出されていましたから、絶好調なのかと思っていましたが、迫り来る最後を見据えてのことだったのでしょうか。
加藤典洋さんに初めてお目にかかったのは、福岡ユネスコ協会の文化講演会に来ていただいて、黒川創さんとともに鶴見俊輔についてお話しいただいた時のことでした。その時の言「鶴見俊輔という人は、ある種のきちがいなんですよ(もちろん肯定的な意味で)」。その含意については、ほかのところでも書かれていますが、そう語る加藤さんもただならぬ人でした。それはつい数年前のことのように思っていましたが、記録をたどってみると、なんと今から7年も前、2012年9月のことでした。
加藤典洋さんの著書に初めてふれたのは、忘れもしません『アメリカの影』(1985) です。今から30年以上前のことです。それ以来、加藤典洋さんの著書は、すべてではありませんが、かなりフォローし、かなり影響を受けてきました。ここ数年の加藤典洋さんの著作には、あらためて注目していて、今年の大学での演習にはちょっと昔のものですが、いまだにその精彩を失わない『言語表現法講義』(1996)の一部を使わせていただいたりしているところでした。
加藤典洋さんの文章は、読めばすぐに分かりますが、まねできないような突出したひらめきとただならぬ文才を感じさせるものです。しかもその才を、表面的な鋭さのままでなく、さらに容易ならざるところまで深めていく、すさまじいまでのこだわりや執念のようなものがあったと思います。彼の『敗戦後論』を批判した人たちと比べても、その深さには、断然の違いがあったと思います。
もっと言えば、彼のそういうとことんつき合い、とことん突きつめていく態度は、若くして大江健三郎のおっかけになり、やがて大江さんと大げんかになったことや、村上春樹の著作を、ちょっと他に例を見ないほど詳細につきつめていった『村上春樹イエローブック』などに現れていると思います。彼のそういうこだわりは、ほとんどストーカーにまで近づいていくような危うさをもっていました。それがまた、独特のえもいわれぬ魅力をもっていたのでした。ご冥福をお祈りいたします。まだまだやり残した仕事があったのだろうと思います。


福岡ユネスコ協会の講演会にて

福岡ユネスコ協会の講演会にて

福岡ユネスコ協会の講演会の鼎談はブックレットにもなっています

福岡ユネスコ協会の講演会の鼎談はブックレットにもなっています

講演会のあと、能古島での懇親会にて

講演会のあと、能古島での懇親会にて

「シネラ」の増村保造監督特集でこれまで10本の映画を観ました。一昨日には勝新太郎主演の「兵隊やくざ」。これもユニークな映画でしたね。ヤクザが陸軍の初年兵になると、いったいどうなるか、ヤクザが軍隊のしごきにどう対処するのか、という不思議で痛快な設定の映画でした。これだけ集中的に観ると、増村保造という監督のある種の「業」のようなものが見えてくるように思います。それは日本の組織がもっている暗い「暴力」を描き出すことへのこだわりです。初期の「青空娘」では妾から生まれた子への家族メンバーによるサディスティックな徹底的な「いじめ」でした。それが「からっ風野郎」「兵隊やくざ」「曽根崎心中」になると、もはや見続けることが出来ないくらい陰惨・残忍で執拗な暴力になります。「曽根崎心中」など、もう、これだけ殴るけるをやれば主人公はとうの昔に死んでるじゃん、というくらい執拗な暴力の暴走です。勝新太郎で人気がでたという「兵隊やくざ」も、そのむき出しの残忍で執拗な暴力の噴出は過剰すぎます。どこかどす黒いものを感じさせて見終わってとても後味が悪いのです。この非合理な暴力こそ、日本の軍隊の抜きがたい黒歴史だと糾弾しているのかもしれません。この世代の戦争体験がそうさせたのかもしれないと思います。見終わると「これが日本の現実だ」と暴力的に叩きつけられる感じなのです。後味は悪いですが、考えさせられます。