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no art,no life──これはNHK・Eテレの、週に一度、わずか5分間の番組である。でも、その5分間が濃密だ。毎回、ひっくり返るほど驚かされる。
たとえば最近の回では「勝山直斗」くんの紹介。番組紹介には「中学生の勝山直斗は、唾液を指につけ壁に絵を描き、壁紙を剥がして壁画を浮かび上がらせる。日本各地の“表現せずにいられない”アーティストを紹介する。既存の美術や流行・教育などに左右されない、その独創的な美術作品」とある。まさにそのとおり。障がい者を見るようなパターナリズムがまったくない。「障がい」とか「福祉」というような概念をまったく必要としない。そんな次元をはるかに超えている。純粋に、ひとりの驚くべきアーティストとして紹介している。
しかもこの人(勝山くん)は、変わった人をのぞき込むような目線をちょっとでも示したカメラに向かって激しく攻撃してくる。彼は壁紙を口にいれる。最後には、それを天上に向かって投げあげる。これは凄い。


昨日、「社会学入門」の授業が終わりました。今学期は初めてのオンライン授業ということもあって、私としても全力投球。これまでにない授業内容を準備して臨んできたのですが、力を入れすぎのところもあったようです。先日、客観的に見るとどうなのかなと、オンラインで授業しているところを、妻と息子にも聴いてもらいました。すると反応は、これはやりすぎ、つめこみすぎ、言い過ぎ、などとコテンパンでした。うーん。なやみましたが、それでも最終回は、これまで話し残したことをまとめて「ナウシカ、千尋、ジョバンニの社会学」とこれまで以上の詰め込み。さて、どうだったか。185人から長文の感想文が届きました。その中に、短いながら、おっ、これは、という感想がありました。
 「対照的な千尋とナウシカの物語が根底では類似していて、千尋のラストシーンでナザレのイエスを想起する……私のこれまでの想像力では到底たどり着け得ないというか、今まで何度も千尋を視聴してきた私もまったく思い至らないことに社会学の視点から切り込む授業は非常に新鮮でした。」
やった、という感じですね。


学期末です。1年生200人対象の「社会学入門」も残すところあと2回となりました。あすは「ロック音楽の社会学」と題して、ジョニ・ミッチェルの「ウッドストック」の話をします。けっこうディープな話にする組み立てを考えていて、前置きを30分くらいしてから本論にいく予定なのです。そして「ウッドストック」の歌詞の解読をしながら、日本とアメリカの若者の対抗文化の比較社会学にいく……という構成なのですが、どうも最後の詰めの一手をどこにしようか迷っていました。ところが、昨日と今日と二日かけて、アメリカのドキュメンタリー映画「RBG」を観て、これだ、と思いました。これで最後の一手が決まりました。あすの講義が楽しみです。どんな反応が来るだろう。
(追伸、「RBG-最強の85歳」とは、昨年、亡くなったルース・ベイダー・ギンズバーグ米国最高裁判事のことです。このドキュメンタリー映画、すごいです。必見です)


佐藤真監督の「Self and Others」(2000年)を観ました(福岡市総合図書館シネラにて)。1時間たらずの映画ですが、これは凄く深いドキュメンタリー映画でした。幼い頃、脊髄カリエスを患ってわずか36歳で亡くなった牛腸茂雄という写真家の足跡を、とくに「Self and Others」という写真集を一枚一枚丁寧に紹介し、関係者の声を聞き、そこから浮かびあがってくるものをとらえた、佐藤真監督の声にならない声が聞こえてくるような映画でした。「阿賀に生きる」も力のある映画でしたが、この作品のほうは、こう言ってしまうと語弊があるかもしれませんが、死にゆく人が死んでしまった人の声に共鳴しながら、その視線や思いを追体験する、そういうトーンを感じました。
この映画のもっとも基調となる写真が、双子(だと思いますが)のポートレイトです。モデルとなった女の子が写真をふりかえって、いちばん嫌いな写真、と語っていたのが心に残ります。どの写真も、たくさん撮影した中で、本人たちからは選んでほしくなかったショットなのですね。しかし心に残る。この双子の写真をみて、だれしも「あっ」と声を上げるのではないでしょうか。そう、スタンリー・キューブリック監督の「シャイニング」に出てくる双子が、この写真にそっくりなのです。調べてみると、牛腸茂雄の写真集が1977年、シャイニングが1980年公開ですから、シャイニングを真似したわけではない!おそらくキューブリックも牛腸のアイデアを盗んだわけではない。ふたつの作品が独立に、しかも独特の不気味な感じになっているのは、実に興味深いことですね。


佐藤真監督のドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」(1992)を観ました(福岡市総合図書館シネラにて)。世評の高いドキュメンタリー・新潟水俣病についての映画ですが、水俣病映画というよりは、むしろ小川伸介監督の「ニッポン国 古屋敷村」(1982)に似ています。ともに現地に住み込んで長期間土地の人たちと暮らしながら映画を撮ったところもそっくりです。「阿賀に生きる」では撮影チームが3年間、土地に住み込んで共同生活をしながら撮影したそうです。ところで佐藤真監督──若くして亡くなりましたが、じつは私の大学時代の同級生です。学生時代から映画や演劇にはまっていて、卒業が危ないというのでみんなでレポートの作成などお手伝いしたしたこともありました。これからという時期に亡くなったのは残念なことでした。


今年心に残った言葉──読書の黄金時代は終わった──津野海太郎が鈴木敏夫との対話でそう述べていた。ともに出版界の最前線を牽引してきた人たちの言だから重みがある。出版だけでなく、大学の黄金時代も(とうの昔に)終わっていた、ということになろうか。でも、まぁ、じたばたしても仕方ない。若い人たちにはそれなりの道があるのだろう。こちらはますます紙の本への愛着が深まるばかり。読書はもう紙の本でしか読みたくない。鉛筆片手に書き込みながらでないと読んだ気にならない。村上春樹はラジオ放送でアナログレコードをかけている。何度も聴いたり読んだりするものは、愛着のある形として残っていってほしいものだ。


クリスマスの時期には、どういうわけか「銀河鉄道の夜」のことを考えてしまいます。クリスマスツリーに飾られた星々が「銀河鉄道の夜」との連想を呼び覚ますのでしょうか。オンライン授業で始まり、オンライン授業で終わった今年の最後の授業を、私は「銀河鉄道の夜」の社会学、としました。数週間考えて、これだ、というアイデアをたくさん思いつき、力をいれて話したのですが……空振りでした。そもそも今の学生は宮沢賢治を知りません。「銀河鉄道の夜」を読んだことのある学生は、200人いる受講生の半数以下でした。映画を観たことも、原作を読んだことがない人むけに、けっこう丁寧に(30分かけて)あらすじや解釈を話したのですが、あまり通じませんでした。「力を入れているのは分かりましたが、内容は全然分かりませんでした」という感想がいくつも来て、ちょっとがっかりしました。私の授業は、しばしば(?)空振りするようなのです。とくに力をいれて話した時には……


最新・社会福祉士養成講座・精神保健福祉士養成講座の『社会学と社会システム』が、中央法規から出版されました。
私は、安達先生・西川先生とともに、この巻の編者になっております。ちょうど昨年の今頃に企画会議があり、執筆者への打診をはじめたので、一年がかりの仕事でした。私は編者だけでなく、みずから「第1章第1節 社会学の意義と対象」および「第2章第2節 組織と集団」を執筆しています。
まずは
安立清史・安達正嗣・西川知亨(編著)『社会学と社会システム』(社会福祉士・精神保健福祉士養成講座)を紹介いたします。(安立清史「第1章第1節 社会学の意義と対象」および「第2章第2節 組織と集団」を執筆)


11月25日は、三島由紀夫が自決した日ですね。今年は50年目ということでドキュメンタリー映画「三島由紀夫 vs.東大全共闘」や、NHKでも先日「三島由紀夫──50年めの青年論」が放映されたりいます。NHKの番組では凄い女性ダンサーが出てきて斬新でした。さて、ちょうど11月25日は、私の「社会学入門」のオンライン授業日なので、三島由紀夫を取り上げることにしました。題して「三島由紀夫とゴジラ」。どういうことでしょうか。三島とゴジラは、とても似ている、共通点がある。三島もゴジラも、戦後日本のあり方にいらだっていて、その行動はとても似ているのです。東京を破壊したり、決起したりしたのは、いったい何のためなのか。誰に問いかけているのか。そういうことを話したいと思います。



 荒唐無稽な妄想のようなテーマですが、三島由紀夫の命日のきょう、200人のオンライン授業をしました。学生たちは熱心に聴いてくれました。その証拠に熱い感想文が次々おしよせて来るのです。力作ぞろいで、ひととおり目を落とすだけで、たいへんです。100通くらいに目を通したところですが、今日の深夜が締め切りなので、まだくるでしょう。社会学の見田宗介先生は、大学では1年生に教えるのがいちばん楽しい、とおっしゃっていましたが、そのとおりですね。打てば響くような感想があり、真っ向から反論して戦いを挑んでくるものあり、みんな真摯に聴いてくれているのを感じます。午前中、講義したあとはすべて出し尽くして、ぐったりと横になってしまうほど疲れましたが、この感想を読むと、ふたたび元気が湧いてきました。
 ところで、三島由紀夫とゴジラの共通項とは何か──あの戦争はいったい何だったのか、戦争責任はいったい誰が負ったのか、という「問いかけ」(そしてそれは丸山真男のいう「無責任の体系」そのものだったのではないか)。そして「対米従属」「戦後、日本はずっと、かの国の属国だ」(「シン・ゴジラ」)という「いらだち」──それらが共通していると思うのです。二人はそっくりの「問い」を日本にたいして発しているのではないでしょうか。


 

多くの人の実感だろうが、オンライン授業のほうが、通常の対面授業にくらべて格段に疲労度が高い。どうしてなのだろう。すこし考えてみた。第1に、オンライン授業だと多くの見知らぬ人たちが、私をじっと見つめている、という感覚になる。一挙一動を真剣に見つめられていたら、ミスできないし、コトバに詰まることもできない、これは疲れる。事前の準備も、対面授業より綿密におこなわなければならない。これまでも画面にスライドが映らなかったり、古いスライドがでたり、フリーズしてしまうこともあった。冷や汗がでる。オンライン授業は手抜きできないのだ。第2に、呼吸や息継ぎが難しい。対面授業だと、教室のひとりひとりを見渡して、アイコンタクトしたり、ふっと息ぬきをしたり(学生も息をつめていることが多いので)、テンションとリダクション、緊張と脱力とを、リズミカルに交代しながらおこなうのだが、そのテンポがオンラインではつかみ難い。下手なスイマーは、全身ばたばたさせて全力で力任せに泳ごうとする──というよりは半分、溺れているのだ。同じように全力疾走してしまうと、あっというまにエネルギーが枯渇する。これも、疲れる二つめの原因だろうか。そこでペース変更のきっかけとして映画や小説やサブカルチャーの話題を挟むのだが、これまたそれを見ていない人にはちんぷんかんぷんになるので、使い方が難しい。映画「シン・ゴジラ」もいつ使おうか。


黒澤明の「醜聞(スキャンダル)」(1950)を何十年ぶりかで再見しました(福岡市総合図書館シネラ)。驚きました。ほとんど何も覚えていなかった自分に。そして黒澤明の若かりし頃の率直な正義感に。さらに意外だったのは、これが黒澤明の「生きる」(1962)にそっくりだったこと。主役は三船敏郎でも山口淑子(李香蘭)でもなく、志村喬演じる弁護士の転落のドラマでした。これは、ほとんど「生きる」そのものではないですか。この映画が「生きる」ほど有名でないのは、やや図式的すぎてリアリティのないこと、後半のどんでん返しの余韻の深めがないまま、青臭く終わるからでしょうか。黒澤明も失敗したと思ったのかもしれません。「生きる」ではこの映画を反省しながら反復して、今度は大成功したのかもしれません。


今学期は、200名の顔の見えない学生たちに向けて、毎週オンライン授業をしていますが、これまでの授業方法を反省させられることしきりです。
昨年までの対面授業では、大教室でのライブの感覚で授業をしていました。スライド作りに精を込めて、授業当日は初めから全力疾走90分間ノンストップのライブ演奏。これ、声も涸れるし、終わったあとはどっと疲れます。でもこれは運動会でトラックを全力疾走した後の疲れのような心地よさもありました。今年は、そうはいきません。まず、話す内容をぐっと減らしました。昨年に比べてスライドも半分以下に。そして後半の30分は、感想を書く自習時間としました。これ、まだうまくいっているのかどうか分かりませんが、昨年までとはまるで違いますね。学生の感想が熱いです。毎回、千字以上の感想がたくさん来ます。ひととおり読むのだけでも大変ですが、なるほど、こういう相互交流というのもありなのだな、そう思います。


映画「アラビアのロレンス」の印象的なシーン──ロレンスたちはトルコ軍の基地のあるアカバ襲撃のため、部隊をひきいて過酷な砂漠を大縦断している。ふと気づくと一人の男(ガシム)がラクダから落馬して行方不明になっている。ロレンスは探しに戻ろうという。ベドウィンの男たちは、それは自殺行為だと反対する。ロレンスはひとりで砂漠に探しに戻る。そして瀕死のガシムを救い出す。その結果を見てベドウィンたちはロレンスに対する見方を一変させる。彼を「救い主」のように見るようになり、部隊の団結が強まっていく。ここは聖書の一節「迷える子羊」をほうふつとさせるシーンだ。99匹の羊をさしおいて1匹の迷える子羊を探しだす──これはイエスの宗教行為のメタファーになっている。このエピソードを、コロナ危機における救命医療の「トリアージ」と対比させて、ぜひ考えてもらいたくて、先週の授業で取り上げた。賛否両論、侃々諤々。でも、それこそ社会だし社会学なんじゃないか。全員一致でガシムを見捨てる社会よりは。


かつてNHKのBSに「世界わが心の旅」という番組がありました。ずいぶん昔の番組ですが、YouTubeを見るといくつか発見できます。李香蘭(山口淑子)が上海で李香蘭になるきっかけを作った「龍馬ちゃん」に再会するのは、なかなか感動的でした。山口淑子さんは、戦争宣伝に加担したことを自己批判しながらも、真正面からかつて李香蘭であったことを語っていましたね。米原万里がプラハのロシア語学校の同級生に再会する話もよかった。かつての各国の共産党幹部の娘さんたちが、プラハでロシア語教育を受けていたんですね。その後日談がなかなかに意味深い。また宮崎駿がサン=テグジュペリの航空路 をたどってフランスからモロッコのキャップ・ジュビーまで飛行する話もすごかったですね。双発機に乗り込んで地上100メートルくらいを飛行するのはジブリ映画の定番ですが、ここに原イメージがあったのですね。また、つい先日亡くなったトランペッターの近藤等則がイスラエルのキブツを訪ねる話などなど、キブツというのは言葉でしかしらなかったけれど、こういうものだったのか。どれも画質は悪いが内容は素晴らしい。かつてはこんなにも深い番組が作られていたのだ。

(この「紅の豚」はモロッコまで双発機で飛行していく宮崎駿そのものですね)


今週から秋学期が始まりました。私の場合、すべてオンライン授業です。昨日から「社会学入門」(全学の一年生向けの基幹教育科目)が始まりました。全学部から200名の学生が聴講しています。もっと受講希望はあったのですが教務課のほうが抽選で200名にしてくれました。これは、いったい、どういう人たちが、どう聴いているのだろう。ひとりも顔がみえません。もちろん反応もありません。シーンとしたノートパソコンの画面に向かって、パワーポイントを動かしながら、ただひたすら語りかけるのですが、これはひどく疲れます。反応がないことが、これほど人を消耗させるものだということが初めて実感できました。どっと疲れました。
……その後、感想文が続々。うれしい悲鳴。197名から感想文が届いています。しかも実に力の入った感想文が多くて、これは手ごたえありましたね。


このところ授業はすべてオンライン授業になっているので、大学に行くことが少なくなりました。先日、久しぶりに出かけたら、糸島の川縁にヒガンバナの大群落が咲き誇っていました。


もう6,7年になるのではないだろうか。ノーベル賞の季節が近づくと、九州の某新聞社から「今年も村上春樹が受賞したらあの原稿を使わせてもらいたい」との連絡が来るのは。そう、村上春樹がノーベル文学賞を受賞したら掲載される予定のコメントを書いたことがあるのだ。でも、毎年使われない。今年も連絡があった。さて、どうなるか。
今年は、村上春樹が例年になく活発にメディアに出演している。これまで禁断のテーマだった父親のことを書いた『猫を捨てる』、短編集『一人称単数』、さらに「村上レイディオ」というラジオ番組への積極的な出演など。ラジオは全部聴いている。なかなか面白い。でも、小説ほどではない。
このところ、加藤典洋の『村上春樹の短編を英語で読む1979~2011』という分厚い本を読み直している。これは凄い本だ。短編を独自の読みで大長編の評論にしている。これぞ謎解き評論とでも言おうか。濃縮された短編の背後に、こんな深い世界があったのか、ということを、独自の読みで示す。え、そうだったのか、という指摘が続出する。短編小説、というものを、読み、がどこまで深く解読できるのか。これはひとつの挑戦のケーススタディだ。たとえば「レーダーホーゼン」という村上の短編。これなど一読、さっぱり分からない。それをこう解説されると、なんだか、世界の霧が晴れたように分かった、という気になる。でも、本当に分かったことになるのか、分かりすぎるようにも思う。けれど、やはりこういう読みを、知らないでいるより、知ったうえで、この読みをどう上回れるか、もしくはこの読みの前に敗退するのか、そういう二転三転、二読三読の挑戦が必要だと思う。奥深い世界がそこにある。

さて、今年のノーベル文学賞。ぜんぜん期待していないが、さて、どうなるか。


「夢の本屋紀行」のシェイクスピア&Co 書店で思い出しました。ウディ・アレンの映画「ミッドナイト・イン・パリ」──この映画にもシェイクスピア&Co 書店が出てきましたね。この映画は1920年代のパリにタイムスリップしたアメリカ人が、その時代の有名人に次々に出会うという一風変わったタイムトラベル映画なのですが、その中で主人公がヘミングウェイと会うレストランが出てきます。このレストラン「ポリドール」──現存する有名レストランなんです。しかも雰囲気がゴージャス。しかし格安の町の定食屋さんなんです。パリ大学近くに滞在していた時には、毎日、このランチを食べに行きました。懐かしいなぁ。味もなかなかでしたよ。