イタリア・ネオレアリズモ映画を観る──無防備都市と自転車泥棒
ボローニャの財団が修復したというイタリア・ネオレアリズモ映画2つ(ロッセリーニ監督の「無防備都市(1945)」とデ・シーカ監督の「自転車泥棒(1948)」)を初めて観ました。今みると、どちらもリアリズムというよりは、戦後の濃厚で過剰なまでの人びとの活動的な姿が際だっています。とくに「自転車泥棒」には驚かされました。第2次大戦で敗戦国となったイタリアの貧しい人たちの間で盗難や闇市のような盗品売買が行われていた中でのドラマです。唯一ともいえる財産の自転車を盗まれた主人公が、まるで常軌を逸したといえるような執念で盗人の追跡を行う映画です。大切なものを盗まれた人が執念ぶかく盗人を捜し回るのですが、やがてそれが自分よりも貧しい人たちの行為であることを知ります。しかしそれには構うことなく貧しい人たちを強引に徹底的に追求していくその姿には常軌を逸した鬼気迫るものがあります。同時に、これはたんなる盗みや泥棒を描いているのではない──という気がしてくるのです。どこまでも泥棒(単数というより盗人集団というほうが当たっていると思います)を追求していく主人公が、最後には自分も盗人になってしまって……という展開は展開として、これはたんなる自転車の泥棒ではない。貧困に追い詰められた人も、たんなる貧民ではない。これは「良心の盗難」を描いたものではないか。つまり「ファシズム」による「心の盗難」のメタファーではないか、と思われてくるのです。ロッセリーニのほうは、レジスタンスの主導者の人たちの過酷な運命を描いています。デ・シーカのほうは、最下層のさらにまた下層の人たちを描いています。ロッセリーニのほうでは「良心」はナチスの拷問にも拘わらず負けません。デ・シーカのほうは貧困に負けてしまう庶民の姿を描いています。戦争直後にはレジスタンスの誇り高き人びとを英雄的に描く必要があったのでしょう。それから3年後、なぜ皆が熱狂してファシスト党を支持したのか。それを支えたのは貧困層でもあったし、ごくふつうの生活をしていた自分たちだったのではないか、そう問いかけているかのようです。


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