From the monthly archives: "6月 2019"

先日のこと、用事のついでに中州を通りました。ちょうど山笠のはじまりの季節でした。自転車だったので、ついふらふらと面白そうな「人形小路」なる脇道へ入りました。昼間の中州は探検するとじつに面白いですね。まるで新宿のゴールデン街のような摩訶不思議な非日常の世界が広がります。
そこで「イエスの方舟の店・シオンの娘」という不思議な店に遭遇しました。昼間だったので営業はしていませんでしたが、その店がいまだに存在することに心底驚きました。「イエスの方舟」事件は、調べてみると1979年から80年のことですから、オウム事件のはるか前、すでに40年も前のことです。メディアでスキャンダラスに報道された後、今度は一転して千石イエスとその活動は、思想家たちから高く評価されたりしました。喧喧囂囂、こういう話題は評価が難しい、その後のオウム事件の報道にも影響を与えたとも言われています。「おっちゃん」と呼ばれた千石イエスは亡くなったようですが、その「娘」たちの「お店」がこうして中州の中に存在し続けていることに、心底驚いたのです。

(詳しくは朝日新聞の記事にもあります)


ここがイエスの方舟の店、シオンの娘

  人形小路という小さな通りに面していました

中州流の山があります


だいぶ前の記事ですが、朝日新聞の記事によれば、中はこんな感じのようです。いまでも、こんな雰囲気なんでしょうか。

宮沢賢治に「圖書館幻想」という短いが奇妙な、幻想的なというべきか、一読しただけでは何のことやらわけの分からない作品があります。
上野の図書館に、「ダルゲ」という奇妙な人に会いにいく話です。
これが、宮沢賢治にとってきわめて重要な、ある親友との再会と訣別のもようを描いた作品だということを、最近みたNHK・Eテレの「宮沢賢治─銀河への旅」で教えられました。
そこで、東京に出かけたさいに、この図書館に行ってみました。(上野に実在します。国際子ども図書館─もとの帝国図書館です)
館内で調べてもらって、宮沢賢治がダルゲと会った部屋(一般閲覧室)を確認しました。いま、ちょうど、イランの子どもの絵本展をやっていました。ここは撮影できなかったので、ここに似た部屋をご覧下さい。


*以下、宮沢賢治の圖書館幻想の一部
 そこの天井は途方もなく高かった。全體その天井や壁が灰色の陰影だけで出來てゐるのか、つめたい漆喰で固めあげられてゐるのかわからなかった。
 (さうだ。この巨きな室にダルゲが居るんだ。今度こそ會へるんだ。)とおれは考へて一寸胸のどこかが熱くなったか熔けたかのやうな氣がした。
 高さ二丈ばかりの大きな扉が半分開いてゐた。おれはするりとはいって行った。
 室の中はガランとしてつめたく、せいの低いダルゲが手を額にかざしてそこの巨きな窓から西のそらをじっと眺めてゐた。
 ダルゲは灰色で腰には硝子の蓑を厚くまとってゐた。そしてじっと動かなかった。


今月は「シネラ」で「近年話題となった注目のアジア映画の特集」をやっていたので「バーフバリ 伝説誕生」と「バーフバリ 王の凱旋」(ともに完全版)を2週にわけて観てしまいました。それぞれ3時間近くの「大作」です。世界的に大ヒットしたらしいです。でも、この見おわったあとの虚脱感というか虚無感は何でしょう。こんな映画を見ていていいのだろうかとか、お気楽・脳天気な世界観だなぁとか、まるでプロレスを映画にしたような、いやプロレスラーによるプロレス映画なんだな等々。見始めて1時間を超えるころから、退屈して頭をよぎりはじめるネガティヴなコトバたち。「何度観ても面白いね」という声も聞こえましたが、ほんとですか? 私はもう二度と見ないと思うけど。
でも、後半には「国母」なる人物がちょっとシェイクスピアの「マクベス夫人」を思わせる狂乱の様相になったり、主人公がリア王的になってきたり、面白いといえば面白いとも言える。
最後の最後に主人公が敵を討ったあと国王となって鎮座するシーンなどは「ああ、これこそ、宮崎駿監督が、ぜったいにこういう終わり方にしたくないと、「千と千尋の神隠し」で苦労に苦労を重ねた、もっとも避けたかった最悪の典型パターンだ」と痛感させられたり、けっこう見所はあったというべきかもしれません。
でも、この贅をこらした、おカネをかけた、こってりした映像美。単純明快すぎて「ストーリーなんかいらないじゃん」と言うほどのストーリー。これがインド映画なんでしょうか。いや、世界中の映画がこうなってきているのでしょうか。

(今月みたアジア映画の中では「ラサへの歩き方─祈りの2400キロ」のほうが比較を絶して優れた映画だと思いましたけれど……)


6月のシネラは近年話題となったアジア映画特集です。今日は「ラサへの歩き方 祈りの2400km」という映画をみました。ほとんど事前知識ゼロで観ましたが、これは凄い。これは、映画として傑作だ。
セミ・ドキュメンタリー的に作られた映画のようですが、チベットの端の小さな村から、村民11名が「五体投地」しながら1200キロはなれたラサへ巡礼にでるというのです。その後、さらに冬の高山カイラス山へこれまた五体投地しながら巡礼するという途方もないストーリーなのです。途中で、陣痛が始まって赤ちゃんが生まれたり、自動車事故にあったり、トラクターを人力で押して峠を超えたり、さらには長老がカイラス山ふもとで亡くなったり。この波瀾万丈の物語が、全然ドラマチックにではなく、じつに淡々と、じつに平穏に、じつに静かに平和に描かれている。女性たちが5人も巡礼に参加していて、最年少の女の子は小学生だ。この子が、じつにステキですね。ふつうは「千と千尋」のごとく、この年齢の女の子はこのセカイへの不平・不満でいっぱいで、本格的な反抗期ではないのですが、ぶうたれているのが普通なのに。この子は、その対極です。じつに素直、じつに平和、じつに楽しそうにのびのびと五体投地している。おそらく映画的なフィクションなんでしょうが、この子が登場したことが、この映画の成功の半ば以上をにぎっていると言って過言ではありますまい。この子には、魅了されてしまいますね。
あとで調べたら、全世界的にヒットした映画のようですが、これは素直にすごい。「ロード・ムービーの傑作」だそうです。言われてみれば、これこそ「ロード・ムービー」ですね。

*この映画のホームページはこちらhttp://www.moviola.jp/lhasa/


6月30日に大阪府社会福祉会館にて「介護保険と非営利組織はどこへ向かうか」と題してお話しします。
これは認定NPO法人・市民福祉団体全国協議会のホームページに掲載された私の論文「介護保険と非営利はどこへ向かうか─小竹雅子『総介護社会』を読む」を読まれた方々が、もっと詳しく聞きたいとのことで、勉強会にお呼ばれしたのでお話しするものです。
「介護保険と非営利はどこへ向かうか─小竹雅子『総介護社会』を読む」は、介護保険が「成功なのに失敗」と位置づけられ、制度の持続可能性のみ追求されるようになり、当事者やNPO法人など民間非営利組織の意見など聞かれることなく制度改正が続けられていく現状にたいして、障害者福祉の立場からみると「現金給付」の意外な可能性があること、営利と非営利とをいちど混ぜてしまうと、元には戻りにくいこと、NPO法人は介護保険という疑似「市場」の外の可能性をもういちど考えるべきではないか、という問いかけの論文になっています。


私たちが定年退職後に「居場所」を求め、「生きがい」や「やりがい」を求めるとすれば、それは「シーク&ファインド」の試みにほかなりません。退職後のセカンドステージの「居場所」は、たんなる「居心地のよい場所」ではありえません。それはコール&レスポンスやシーク&ファインドが起こる場所、まさに、社会からの「呼びかけ」に耳を傾ける場所、つまり生きる意味を「シーク&ファインド」する場所に他ならないのではないでしょうか。ボランティア活動や様々な社会活動、それはたんに退職後の「生きがい」や「やりがい」を模索するだけではない。私たちの生きる意味そのもののシーク&ファインドではないのか。そういう暫定的な結論を申し上げて、講演をとりあえず閉じさせていただきました。


では「呼びかけ」を聴くということ、それはどういう経験なのか。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」がそのエッセンスを伝えています。ジョバンニは「銀河鉄道」に乗って宇宙の果てまで行こうとしたのですが、宇宙の果てまでいくことが目的だったのでしょうか。そうではないと思います。
「銀河鉄道」の中で、死者の語る「声」に耳を澄ませていたのではないでしょうか。つまり「銀河鉄道」は死者からの「呼びかけ」を聴く場所、まさにコール&レスポンスの起こる場所だったのではないか。宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」も、宮沢賢治を非常に意識しつつ、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を現代社会の中で乗り越えたいという強い想いから作られた映画と言えます。「千と千尋の神隠し」では「神隠し」のこのセカイの中で、カミは天空にいるのではない、宇宙の果てにいるのではない、むしろこのセカイの中に、このセカイの奥深くにこそいるのだ、そういう世界観を描いているのではないでしょうか。湯屋という現代の歪んだセカイから脱出した千尋が「水中鉄道」に乗るのは、そのためではないでしょうか。千尋もまた、水中鉄道の中で死者からの「呼びかけ」に耳を澄ませているのではないでしょうか。


続いて「定年とは何か、定年をどう乗り越えるか」を考えると……「コール&レスポンス」と「シーク&ファインド」(村上春樹)が重要になる。ジャズ音楽のエッセンスであるアドリブ演奏は、コール&レスポンスが基本。前奏者にコールされることによってレスポンスが生まれて続いていく。音楽の神様に「呼びかけ」られることによってクリエイティブなレスポンスが生まれる。これって「ボランティア活動」が生まれる基本メカニズムではないのか。誰かに「呼びかけ」られること、もっと言えば「社会」や神からの「呼びかけ」を聴くこと、聴けること、これこそ退職後の「生きがい」や「やりがい」を持てることの基本的なメカニズムなのではないか……そう論じました。


宮崎県立西都原考古博物館で「定年と諦念を超えて─セカンドステージと居場所づくり」というお話しをさせていただきました。私たちは「定年」をあたかも年齢による自然現象のように諦めとともに受け入れてしまうけれども、宗教的な国アメリカではそうではない。人種差別や性差別と同じく「年齢」による「年齢差別」であるとされる。ここはなかなか考えどころ満載のポイントなのですね。宗教的な次元にたって考えれば、神から与えられた人権を、人間がかってに奪おうとしているということになる。つまり「(神の)法による支配)」でなく「(企業という)人の支配」そのものだ。そこで「人間による人間の支配」に対抗するNPOという社会運動が起こる。それは世俗的なだけでなく宗教的な次元からも正当化される「教会のような協会」ということになる…「高齢者による高齢者のための高齢者NPO」は宗教的にも正当化される……。こういうイントロダクション、ちょっとあまりにもいきなりなので理解されるかなぁと思いながら話し始めました。つづきはまた。


先週は宮崎に講演をかねてNPO法人の見学に行ってきました。2日間にわたってとてもパワフルな宮崎のNPOを見学させていただきました。まず「みやざき子ども文化センター」では、その事業内容にも驚きましたが、最近では「子ども食堂」を支援。代表の片野坂千鶴子さんのお話しをうかがったあと、当日はちょうど来ていた「子ども食堂」のコーディネーターの黒木淳子さんにもお話しをうかがいました。さらにちょうど事業者の方が「子ども食堂」に支援物資を寄附されにきて、すこしお話しをうかがうことができました。なるほど「子ども食堂」にはまだまだ様々な可能性があることが分かりました。その後は障害者の自立生活を支援するNPO法人「ヤッドみやざき・PAみやざき」を訪問。ここではまず建物に度肝を抜かれました。事業高もさることながら、その事務所オフィスがただものではない。貧しく小さいNPOではなくて、むしろこれからの非営利組織の「夢」というか、NPOもここまで行けるのだ、NPO法人こそこういう夢を目指さねばいけないのだ、というビジョンを体現している団体だと感じました。さらに翌日は「ホームホスピス宮崎」と「かあさんの家」を訪問。理事長の市原美穂さんに、お話しをうかがったあとじっさいに「かあさんの家・霧島」を訪問して利用者家族やスタッフの方々にお話しをうかがいました……どれも他に類を見ないパワフルなNPOばかり。二日間、ほかではなかなか味わえない濃厚な時間でした。