From the monthly archives: "10月 2016"

 おくればせながら、ようやく「シン・ゴジラ」をみました。すでに一日一回の上映になっており、観客が多いわけではありませんが、今年の夏の話題をさらった映画のひとつです。すでに多くの批評が出ているようですが、多くは、ゴジラを「3.11」と重ね合わせる(ゴジラをメルトダウンした原発と重ね合わせる)ものです。もちろんそういう寓意が込められていることは間違いないでしょう。でもそれだけではないと思います。

 

「シン・ゴジラ」には内面がない

 考えてみたいポイントはいくつかあります。第1は「ゴジラの内面のなさ」です。伝説的な第一作のゴジラには、溢れるような怒りと破壊願望、そして破壊しても満足できない、やるせない悲しみのようなものが漂っていました。ゴジラがなぜ東京を破壊に来るのか、そこにはゴジラなりの深い内面があるように描かれていました。だからこそ、多くの観客を魅了し、多くの批評家に「ゴジラ論」を書かせたのでしょう(有名なところでは四方田犬彦や加藤典洋のゴジラ論などがあります)。ところが、今回のゴジラには、内面がありません。「エヴァンゲリオン」に心がないのと同じです。戦い、破壊するようには造形されているが、心は宿らない。そもそも心なんてない。そういうふうに造形されています。ここには注目しなくてはなりません。地震や津波、原発やその暴走、メルトダウンは「心」がそうさせたのではない。それはゴジラの怒りではない、ただの核物理現象だ、そう突き放しているようにも見えます。

 

SFではなく「ポリティカル・フィクション」

 第2は「ポリティカル・フィクション」という見方です。これはサイエンス・フィクション(SF)ではない、ポリティカル・フィクションだという批評がでていました。なるほどと思いました。「シン・ゴジラ」をSFとしてみるとたいしたことはない。むしろ、ゴジラの血液凝固剤を、日本全国の工場が協力して生産する(軍事統制経済)ところや、省庁間の派閥や縦割りの弊害が、破滅的状況の中で、次第に克服されてひとつに連帯・団結していくという、普段にはありえない「ポリティカル・フィクション」の世界の展開に多くの時間と工夫がなされていました。子どもたちがこれを見て面白いと思うのだろうか。「セリフはほとんど理解できなかったけれど、面白かった」という感想があるらしいです。なるほど、現実の大人の世界をがんじがらめにしているフィクションみたいな日本のルールが、ゴジラによって破壊されていくのが痛快なんでしょうね。子どもたちだからこそ、この面白さが分かるのかもしれません。省庁間の縦割りのような、日常の力学が、ゴジラのようなスーパーパワーを前になすすべもなく崩壊していくのも痛快だし、狭い「縦割り」「たこつぼ」の中に閉じ込められていた「オールニッポン」の潜在力が、危機に瀕して、不死鳥のように蘇ってくるのも、子どもたちにはわくわくするところでしょう。ニッポンの力が試され、破滅しそうだが、ぎりぎりのところで立ち直る、という映画の世界のお約束が見事に成りたっていて、はらはらどきどきしたあと安心するんですね。ああ、やっぱり日本はいい国なんだと。でも、ちょっと中途半端なところもある。首相官邸は戯画的に描かれていて、あっというまに首相たちの乗ったヘリコプターは破壊され、みな死んでしまう。でも、肝心の「天皇」はどうなったのか。天皇は避難したのかどうか。第一作のゴジラでも最大の問題となった「1954年のターン」という問題提起(ゴジラがなぜ皇居を破壊せずにターンしてしまったのか)は、今回も曖昧にされたままでした。

 

ゴジラ対アメリカ

 第3は「アメリカ」との関係です。第一作で、ゴジラが東京を破壊していくルートが、東京大空襲の時のB-29爆撃機と同じルートだということは、よく知られています。ゴジラは、その初めから、アメリカへの愛憎をともなって出現していたのです。そもそもゴジラはアメリカの「原爆」のメタファーでした。ゴジラはアメリカであり、ゴジラ映画とはアメリカと戦うという潜在意識を反映していたのです。さて今回はどうか。「アメリカであってアメリカでない」あるいは「アメリカではないがアメリカだ」というようなアメリカが登場します。大統領補佐官となった日系アメリカ人女性がそのように描かれています。この女性は意味深です。日本人の潜在的な抑圧と願望の投射なのでしょうか。実際に3.11にさいして、危機に瀕してなすすべもない日本、意志決定できない日本、それを見ていて介入しようとするアメリカがあったそうです。ゴジラ対日本は、ゴジラ対アメリカの代理戦争になるのでしょうか。

 

ゴジラは「グローバル資本主義」のメタファー

 さて、以上をふまえて私の思うところを述べれば、ゴジラは「グローバル資本主義」のメタファーです。現代のゴジラは「グローバル資本主義」として突然やってきて巨大な力で荒れ狂います。そのあげく、日本を、東京をめちゃくちゃにしていくのです。地方は「地方消滅」します。しかし、日本政府は、この荒ぶる神を前に無力です。分析するほどに、真正面から戦って勝てる相手でないことが分かってくる。なんとか鎮めようと、その血液を「凍結」させ、一時的に破壊を止めさせるくらいが、せいぜいである・・・。ここには、現代の日本の「空気」というか「諦め」の気分が、濃厚に漂っています。かつてはゴジラと真正面から戦って打ち倒したものです。現在は、ゴジラ(というグローバル資本主義)と真正面から戦って勝てるはずがない、とはじめから諦めているのです。これは正確に日本の「空気」を反映しているのではないでしょうか。

 グローバリズムや「グローバル資本主義」こそが、現代のゴジラである。新のゴジラであり、真のゴジラである。それは人間の心は通じないのです。「グローバル資本主義」はあたかも「God」の装いすら帯びている。このゴジラに対して、信仰を持たない私たちは、このような「God」を肯定はできず、かといって否定もできない中途半端な対応をするのみ。

 ああ「シン・ゴジラ」は現代の私たちそのものです。


NHKのMさんに教えられて再放送となった「この子らを 世の光に」を見ました。糸賀一雄については正直、名前しか知らなかったのです。しかし、これを見ると、個人としての糸賀一雄ではなく2人の同志や、理解ある周囲の家族たちや、様々な人たちが、いわば「拡大された糸賀一雄」になって土地の中に根づいていく姿が見えてきました。障害をもった児童たちの姿もリアルに描かれています。しかも障害のリアルだけでなく、光がさしてくるようなその姿のリアルさも撮影されていて、考えさせられるものが大きいです。そして、「この子らに、ではなく、この子らを」という発想の大きな転換がどう起こったのかを解き明かそうとしています。この言葉を、現在の私たちの課題として手渡そうとしている、そういうドキュメンタリーになっているのではないでしょうか。

修正します。前稿では「この子らに、ではなく、この子らへ」と書いていましたが、間違いです。そうではなく「この子らに、ではなく、この子らを」でした。


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不思議なもので「夏目漱石の妻」というNHKの土曜ドラマを見なかったら、シューベルトのこの曲を知ることもなかっただろうし、CDを借りてきて何度も聴くこともなかったはずだ。何を言っているかというと、ドラマにも、音楽にも(そして演奏にも)、それだけの惹きつける力があったということだ。ドラマも音楽も、良かった。ドラマについては毎回、1時間15分もの長丁場で、これほど暗くて重たいテーマを、よくもたせたものだと思う。このドラマで、初めて夏目漱石の病跡について詳しく知ることになった。ドラマだからどこまで脚色されているか分からないが、基本的に事実には基づいているのだろう。凄まじいことである。いっしょに見ていた家族は重すぎて見ていられないと逃げ出した。こういう重いドラマをエンドロールの「シューベルトのピアノ・ソナタ第21番」が見事に救っている。これも見事な選曲だ。21番のしかも第三楽章のしかも後半の、そして絶妙ともいうべきワルツのような箇所を使っている。誰が選曲したのだろうか。感心した。


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日本社会学会理事として社会学評論編集委員をつとめております。今年はサバティカル年なので、たいした仕事はできていませんが。
さて、現在発行中の、学会誌『社会学評論』Vol.67,№2/2016 の「編集後記」を執筆させていただきました。今年6月、パリ大学国際都市に滞在してきたばかりの時だったので、ヨーロッパもアメリカも日本もどうなってしまうのだ、という混乱した気持ちの中で書いたものです。今読み返すと少し冷静さを欠いていたかもしれません。しかし次の箇所は、今だったら次のように、もっと強く書くかもしれません。
「「社会学」はこれまで何でも論じてきたのだが、ほんとうに必要なことがまだ論じられていない」。これでは弱すぎますね。こう書くべきだったかもしれません。「「社会学」は、これまで何でも論じてきたが、今、ほんとうに重要なことだけが論じられていない」と。
「ばかな、そんなことはないぞ」という猛烈な反発と反論を期待したいと思います。それこそが学会誌の編集後記の役割だと思いますから。



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今年度の九州大学の紀要『人間科学・共生社会学』に以下の論文を発表しました。


安立清史,2016,「地方消滅」時代の若者の「地元」意識の現状と構造,『人間科学・共生社会学』,pp.59―70,Vol.7, 2016


安立清史,2016,「地元以上の地元」はどこにあるか-「地方消滅」時代の「地方」と「地元」-,『人間科学・共生社会学』,pp.71―82,Vol.7


安立清史,2016,非営利組織の「経営」とは何か-介護保険における非営利法人の「経営」をめぐって-,『人間科学・共生社会学』,p.105―122,Vol.7


安立清史・小川全夫・高野和良・黒木邦弘,2016,特別養護老人ホームの未来を現場はどう見ているか-第1回「特養のあり方に関する未来予測調査」の結果から,『人間科学・共生社会学』,Vol.7,pp.83―95,2016


安立清史・小川全夫・高野和良・黒木邦弘,2016,特別養護老人ホームの「人材確保」と「経営」-第2回「特養のあり方に関する未来予測調査」の結果から,『人間科学・共生社会学』,Vol.7, pp.97―104,2016


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