From the monthly archives: "12月 2017"

先日入った書店でぐうぜん目にしました。この本です。

長岡亮介著『東大の数学入試問題を楽しむ: 数学のクラシック鑑賞』(日本評論社)

あぁ、駿台の若き名物数学教師だった長岡さんだ、と記憶が蘇りました。お元気なんですね。惹句を見ると、これがけっこうすごい。
……“予備校の若きカリスマ講師”が“初老教授”となったいま、若い人たちに贈る「これが数学!」の講義。往時のエリートたちが興奮した「本当の数学」「数学的受験勉強」の伝説が、いま、蘇える!“数学の考え方・学び方”のヒントがここに。……とある。

東京のお茶の水にある駿台に一年間通ったのは、もう40年も前になります。あの頃の駿台の先生は、すごかったなぁ。日本史の金本正之先生、英語の奥井先生、その他、すごい先生たちが揃っていました。いまでもその講義の名調子、思い出します。懐かしいですね。


数学のクラシック鑑賞、というが良いですね。そうか、東大の入試問題は、クラシックなのか。

私もゲスト・スピーカーとして提言書作成に参加した市民福祉団体全国協議会『「地域共生社会」推進のために~社会保障の新たな進展の基軸として』がまとまりました。市民協のホームページからご覧いただけますが、私のホームページの中でも紹介したいと思います。



市民協提言書 2017.12.21提言(完成版配布用)

今年は時ならぬ「ブレードランナー」の年でした。「ブレードランナー2049」が公開されるというので、「ブレードランナー」ファイナルカット版とディリクターズカット版を見直しました。また『「ブレードランナー」論序説』(加藤幹郎)という研究書も興味深く読みました。そのうえで「ブレードランナー2049」を観に行きました。その感想を以下に書きます(やや長文)。

さて前作「ブレードランナー」(1982)が年をへてますます評価が上がるのにたいして「ブレードランナー2049」のほうはあまり評判にならなかったようです。福岡でももうすぐ上映が終わってしまうというので過日、観に行きました。観客はまばらでした。残念なことですが、前作に、はるかに及ばないと思いました。

いくつか思いつくままにその理由をあげてみたいと思います。

・オリジナル版には、理不尽な寿命設計にたいするレプリカントの怒りと悲しみがあり、それを冷酷に殺していくデッカードの「正義」がどんどん怪しくなっていくという、かなり周到に考えられた映画の進行がありました。善のように見える者こそが悪ではないか、という映画的懐疑がしだいにふくらんでくるのです。とくにゾーラとプリスの殺害シーンにはリアルなだけに、それが端的に表れている。あの殺害には正当性がない、とても後味の悪い「正義の殺害」でした。それがクライマックスでのロイとデッカードとの対決への伏線となります。プリスの殺害のすぐあとですからデッカードの側に「正義」があるとはとても思えない。むしろロイのほうに正当性がある戦いです。だからロイがデッカードを痛めつけ勝利するのは当然です。正義と悪とがまさに逆転していく。いわゆる「悪」がいわゆる「正義」に勝利しているかのように見えてくる。動揺しているうちにデッカードが追いつめられる。そして最後のとどめをさそうとする寸前、ロイの寿命がつきていく。その場面が絶品です。映画史上に残るシーンでしょう。ロイの死の直前に驚くべき展開が起こる。レプリカントにとっては悪の権化であるデッカードを、最後の最後にロイが「赦す」のです。憎きデッカードを助け上げたうえで赦して死んでいく。これは『「ブレードランナー」論序説』でも書かれていましたが、ロイにキリストの姿を重ね合わせているシーンだと思います。ここが前作「ブレードランナー」の真骨頂のシーンでしょう。映画的には悪に描かれたロイこそがキリストの再臨であるかもしれない。「悪の中から現れるキリスト」、そう思わせるものがあります。驚きの余韻がさめぬまま、今度はデッカードが逃亡レプリカントのレイチェルを救い出して逃避行へでる。それをガフも手助けする。これこそ「映画的な共振」でなくてなんでしょうか。ロイたちの思いをデッカードが受け継いだのか。そしてヴァンゲリスの音楽が、殺伐としたストーリーに、なんというか、和解というか郷愁感をもたらします。ここはすばらしいラストシーンの流れだと思います。デッカードの姿は、まるでキリストを迫害していたパウロが回心していくかのようです。

1982年の「ブレードランナー」を代表する未来都市風景ですね

・これらの前作の美点にたいして「2049」はどうだったか。まるで深さを欠いています。お約束のような常識をなぞるだけです。前作を乗り越えることは無理としても、せめていくつかの点で前作を正統に継承すれば、素晴らしかっただろうに、と残念に思います。

・まず、前作ではレプリカントのロイがキリストのように人間デッカードを赦したのだから、今回は、ぜひとも、人間側が、もしくは人間側のレプリカントK(ジョー)が、対立するレプリカントを「赦す」展開になるべきだと思います。そうでなければ、前作における、レプリカントからデッカードへの一方的な「贈与」の物語から、こんどは人間からレプリカントへの「反対贈与」が成立しません。そうでなければ、釣り合いがとれないでしょう。ところが、期待していた、そのような反対贈与は起こらず、そしてサプライズも起こらず、いかにも平凡な展開です。ハリソン・フォードも、出るぞ出るぞと期待させた場所で予想通り出て来るし、逃避行のあとでも、何か人間的な成長があったようにも見えない。新ブレードランナーのKは一本調子で戦っているばかりだし、悪のレプリカントを退治するという、たんなる勧善懲悪物語に終始してしまいました。これではがっかりの凡作ストーリーだ。落胆してしまいました。

・今作は主人公のKがレプリカントという設定なのだから(じつはリドリー・スコットは前作でもデッカードがレプリカントであるという設定を考えていたらしいが、これはつまらない設定だと本でも批判されています)。善のレプリカントが悪のレプリカントを殺すという自己言及的な構造になっています。これでは、人間はレプリカント同士の戦いを高みから見下ろす安全地帯に退避してしまっています。これではいけない。もっと切実にならなければいけない。そのためには、ここからもうひとひねりが必要だ。一瞬、レプリカントが虐げられる側になって団結していくという労働組合的なストーリーもちょっと出てきますが、あっというまにしぼんで、レプリカントが善悪に分かれてレプリカント同士の力の対決に終始してしまいました。これではサプライズも広がりもない。

・いくつも前作へのオマージュの部分もはさんであるのだから、もうすこし何とかならなかったのか。たとえば、最後にKが死んでいくシーン。あそここそ、前作のロイにならって、うつむいて死んでいくシーンにしてほしかった。ところが映画では、あおむけにねっころがって、そこに雪がふってくるのだ。雪を降らすなら、せめて、鈴木清順風に、あるいは、アンドレイ・タルコフスキー風に、降らせてほしかったものだ。そういう重要なキモも、今回は全部はずしにはずしていた。仰向けに寝転んで、そこに雪が舞ってくる、というのでは、あまりに普通ではないか。まるで「君の名は」みたんじゃないか。

・さてさて、さほどかように、前作を乗り越えることは難しいものです。とくに、巨額の制作費をかける映画においては、思い切った勝負はできなくなるのでしょうね。

何度見ても、このうどん屋台のシーンはおかしい。

ところで『「ブレードランナー」論序説』(加藤幹郎)という本ですが、これはコアなオタク的な研究書です。教えられるところも多かったです。なかでも卓見だと思ったのは、「映画ブレードランナーの主役はハリソン・フォード(デッカード)ではなく、ルトガー・ハウワー(ロイ)なのだ」という主張でした。「主役」の定義にもよるかと思いますが、そうかと思って見直すと「ブレードランナー」はまったく違って見えてくるのです。「ブレードランナー」はリドリー・スコット監督の意図をこえて、ハリソン・フォード(デッカード)の映画ではなくルトガー・ハウワー(ロイ)の映画であるように思います。

(また、この本では、リドリー・スコット監督をずいぶんとディスっており、ディレクターズカット版を批判し、映画のクライマックス、ロイが死んでいくシーンを、リドリー・スコット監督はきっと何も演出せず、ロイに任せたに違いないと推定したりしています。それは「ブレードランナー2049」の不発ぶりを思うと、さもありなんと思いました。監督のヴィルヌーヴの責任だけでないのかもしれませんね。)


 

ちょっと前のことになりますが、箱崎九大記憶保存会のメンバーとともに、九州大学箱崎キャンパスの中心に鎮座する「旧工学部本館」の屋上にあがってみました。そこからは解体が進む九州大学箱崎理系キャンパスが展望できます。
「さよなら」と別れを告げるまもなく、つぎつぎに解体・「消滅」していく箱崎キャンパスは、悲しさや寂しさを感じるいとまもなく一掃されていくようで、まるで再開発の「ツナミ」に押し流されるような殺伐さを感じます。なんだか、これで、いいのかな。


*九州大学の中心に鎮座する工学部本館からは、総長のいる本部棟をはるか下に見下ろすことができます。九州大学は工学部中心に発展してきたことが良く分かりますね。屋上の部屋は、まるで、フーコーのいう「パノプティコン」そっくりです。

*すでに理系キャンパス構内は「立ち入り禁止」ばかりになっています。大学の上は、福岡空港への着陸コースの真下なので、飛行機がこんなに間近に大きく飛来していきます。騒音も相当なものです。

大学移転にともなう箱崎キャンパスの解体が急速にすすんでいます。理系キャンパスの建物は急速に破壊されています。また、忘年会などで使った威風堂々の「三畏閣」も解体がはじまりました。どこか料亭か何かとして移築すれば、門司港の「三宜楼」のように価値がましたのに、残念なことです。秋の紅葉がみごとな楷の樹も、中庭の一本は移植されますが、この樹のほうは、おそらく、伐採されるのでしょう。今年の紅葉が、見納めでした……さびしいですね。


*三畏閣は、学生たちのコンパや茶道部などに使われてきたようです。詳細については「箱崎九大跡地ファン倶楽部」に見事な写真がアップされています。

*ゆっくりお別れを言うまもなく、楷の樹の今年の紅葉は終わってしまいました。これが「見納め」だったのですね。

箱崎は九州大学にとって「地元」なのか
秋学期の安立ゼミでは、学生の「地元」意識調査班と、九州大学のある箱崎の町を探求する班とに分かれて、ゼミを進めています。いままさに箱崎からの移転が真っ最中です。はたして箱崎は九州大学にとっての「地元」だったのだろうか。かつては「地元」だったのに、いつからか疎遠になったとしたら、いつからそうなったのだろうか、これからの箱崎のまちづくは、どうなっていくのだろうか。そんなことを問題意識にして、学生たちは箱崎の町をフィールドワークしています。
12月14日には、箱崎で学生時代を過ごされた柴田篤名誉教授をお招きして、かつての箱崎の町と学生の生活についてお話ししていただきました。空からみた写真だと、かつての箱崎が、農地であったこと、そして米軍板付基地がすぐそばにあって、九州大学の上が飛行機の進入路になっていたことなどが、よく分かります。そしてこの進入路から米軍のファントム戦闘機が九州大学のキャンパスに墜落して、学生運動が燃えさかったのです。


柴田先生は箱崎に住み、その変遷を眺めてこられました。また、大学もひとつの町なのだとおっしゃいました。学生たちも聞き入っていました。航空写真をみると、九州大学が航空機の空港への進入経路の真上にあることが、よく分かります。