今年も東京大学・本郷キャンパスで「高齢社会総合研究学」の一回分として「高齢社会の国際比較─アメリカの高齢社会」の講義を行いました。今年の教室は法文2号館の1番大教室でした。この大教室は、この3月に仏文の野崎歓さんが最終講義を行った大教室でしたので、感慨深いものがありました。今年の学生さんたちは、社会学の学生のみならず、医療・看護系や工学系の院生さんたちもいたそうです。講義のあとに、活発に質問に来られる学生さんが何人もいて、うれしいことでした。


東京大学での講義の要旨は以下のようなものでした。
・先進国の中でもっとも「宗教的な国家」アメリカ、それなのに/それゆえに?「半福祉国家」「反福祉国家」なのはなぜか
・「高福祉・高負担」の北欧、「低福祉・低負担」の米国。この違いを、エスピン=アンデルセンの「福祉レジーム論」だけでは解き明かせない。
・そこで北欧の「ルター派」と米国の「カルヴァン派」という宗教原理の違いから解き明かそうとする研究が近年数多くでるようになった。
・アメリカで「政府による福祉」が好まれない理由、そのひとつが「カルヴァン派的な信仰」にあるのではないか
・Dパットナムらの『アメリカの恩寵』が、その解明の糸口を与える
・米国のNPO、とりわけAARPは、ある意味で「教会のような協会」となっていて、福祉政府の代替的な役割を果たしているのではないか。
・米国のNPOが、日本のNPOと大きく違うところ、それはレスターM.サラモンのいう「第三者による政府」あるいは「バーチャル政府」を形成しているところにある。
・政府とNPOの関係に関して、「二者関係」と「三者関係」の理論を導入してみる。すると見えてくるものがある。
・最後に、高齢社会の意味づけを考えてみる。日本の超高齢社会は、緩慢な「日本消滅」論になっていく。そしてこの「消滅」が「定年のような諦念」をもって受け入れられているのではないか。ある意味、無常感とともに。
・しかし、米国や西欧で、高齢社会のその先が社会の「消滅」である、というとらえ方は受け入れられるのだろうか。ありえないのではないか。「終末」ではなく「終末」としてとらえられることだろう。キリスト教的な「最後の審判」へ向けた「終末」論として。
・「消滅」対「終末」。こう対比すると、高齢社会の意味づけが、大きく違うことが分かる。高齢社会論は、たんに人口構造論ではない。高齢社会をどう社会が意味づけるか、それとも大きく関わるものである。(関心のある方は、私の著作のいくつかをご参照下さい。)


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