きょうは4年生の卒論提出日です。九州大学社会学では学部4年生の卒論に課される字数が多いので(4万字、ということは400字の原稿用紙換算で100枚程度)、学生たちも悪戦苦闘しているようです。
卒論指導をしていて感じることがありました。
それは学生が「書く」のではなく「打つ」ようになってきていることです。しかもパソコンのキーボードでなく、どうやらスマホに打っているようなのです。スマホの画面で「打つ」、というよりは「さわっている」「フリックしている」というべきでしょうか。授業中でもノートを広げている学生が少なくなりました。
おいおい、それって、「書く」ことなのかなぁ、という思いを禁じ得ないのです。
「書く」ってのは、頭で考えたことを、指先が筆記していくあいだに、あっ、これは違うなとか、これは平凡すぎるのなぁとか、こりゃつまらないやとか、自分の考えたことにたいして、指先が批評したり批判したり反抗していったりすることの経験でもあるわけです。
筆記しながら、指先やペン先が、頭の意図と違うことを書き始めたり、コトバが不思議と踊り出して、コトバあそびが始まったり、あらぬことを主張しだしたり・・・ようするに、考えたことと、書かれたこととが、ずれてきたりして、それがまた、新しい発見になったり、文章の起爆剤になったりするものだと思うのです。
・・・とここまで書いてきて、いかん、これは「deja vu」(既視感)だと思いました。30年前に、私たちが、上の世代から浴びせられた違和感。「君たち、手紙はワープロで書いてはいかん」とか、「ワープロになったら文体が変わった」とか言われた経験。
ふうん、なるほどねぇ、これが時代の移り変わりというものか。
かつて、私たちが、パソコンを使い出した時に上の世代が感じた違和感を、いま、私たちが下の世代にたいして感じているわけなんだなぁ。
でも、このところ、手書きが、やっぱりいい、と思うようになりました。手書きの時に、いちばん充実して考えることができるような気がする。手書きしながら、頭でなく指先が考え出す時が、いちばん、おもしろくたのしいアイデアが膨らんでいる。そう思うようになりました。とくに早朝におきて、布団のなかで、ぬくぬくしながら、小さなメモ帳に縦書きで着想を書いているときなんかに、それを強く感じますね。


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不安な時代なのか、初詣の人手が例年以上に多かった・・・

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