「菊とギロチン」─夢以上の夢、そして、現実以下の現実


「頭でっかち」なアナーキスト革命家たちと「体でっかち」の女相撲力士たちの奇妙な連帯が時代の閉塞状況の中で「革命」の可能性。
 この両極端の意外な連帯が奇跡的に成就する(したかに見える)夢のような軽快な楽しさに満ちた前半部と、革命や連帯の夢が「現実」に翻弄されて崩れ去っていく過程をリアル以上にリアルに描いたしんどい後半部。観ることの楽しさと、見続けることが拷問のようになる後半との落差がすごい。
 前半は、「ギロチン社」と女相撲という「現実」に存在した両極端の邂逅を、構想30年という監督の着想がみごとに展開していって、なるほどこういう連帯がありえたか、という空想上の驚きと楽しさに満ちて成功している。ところが一転して後半は30年間考え続けた結果が、何でこういう終わり方になるのか、という釈然としない結末になる。なぜ、こういう終わり方になってしまうのか。そこを考えたい。
 そもそも、この映画の急所は、どこだろうか。
 女力士・十勝川が、その朝鮮人という出自のため農民や在郷軍人から理不尽なリンチを受ける場面だろう。助けにいったアナーキスト革命家と女相撲力士十勝川と農民・在郷軍人との鋭く対立する三角形があらわれ、戦いがあって、そしてすわ殺人かという寸前で農民の側から奇妙な共感が出現する。すると3者の奇跡的な連帯が、一瞬成立したかに見える。ここが前半と後半を分ける分岐点なのだ。
 問題はここからだ。「ギロチン社」のメンバーと「女相撲力士」と「農民・在郷軍人」との三者の「連帯」が、一時的な感情的な連帯に終わるのか、それとも実のあるリアルな連帯に変わるかどうか。そこがこの物語の前後を分岐させる分かれ道で、もっとも重要な場面だ。異なる属性や階級間の連帯が可能か、という社会学的な課題といってもいい。

 ところが、この重大な問いにたいして、この映画は答えない。アナーキスト革命家と女相撲力士十勝川は船で外部に逃れ、「農民・在郷軍人」たちは警察に連行されていく。このシークエンスからは、三者の奇跡的な融合と連帯が、あっけなく崩れ、夢が再び虚構の言葉の上だけのものに帰していった……というストーリー展開になったことが読みとれる。
 なんでこうなるのだろう。わざわざ虚実入り交じった「映画」として撮影されながら、どうして後半部にやりきれない「現実」をこれでもかというほど偽悪的に映し出すのだろうか。前半の夢の世界と、後半の現実の世界とを、対比したつもりなのだろうか。
 しかしこれは「現実」ではないだろう。むしろ「現実以下の現実」を描き出したのだ。前半部では、夢というか「夢以上の夢」を描きだしながら、後半部では「現実以下の現実」を描き出す。この対比が生み出す効果は大きい。しかし見終わったあと、とても陰惨な、やるせない疑問だけが残る。このように夢を持ち上げておいて、落として破壊するような映画に、いったいどんな「意図」があるのだろうか、と。意図せざる意図、なのか。それともたんなる失敗なのか。30年もかけたというからにはたんなる失敗ではない。考え抜いたあげくの夢の放棄、そして「現実以下の現実」の描写に新たな何かを賭けたのか。成功なのに失敗という、何か逆説的な思いをいだかせる問題作である。


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