思えば、「地方消滅」論が現れたので柳川市での「柳川市定住促進若者会議」が始まった、安立ゼミでの柳川フィールドワークが始まった、伝習館高校と九州大学とのコラボが始まった・・・いろいろな「始まり」の起点でもある。すでに何度か読んでいたものだが、正月休みにあらためて読み返してみた。

 本書は、人口減少局面に入った日本の現状が、考えられている以上に深刻で、このままでは多くの地方自治体が早晩、消滅の危機に瀕するという「データ」を示している。その「消滅可能性自治体」とは「2010年から2040年までの30年間で、20歳~39歳の年齢層の女性数が、50%以上減少する市区町村」であると言う。若い世代が地方から流出して東京などの大都市圏に移動して、大都市だけが生き残る「極点社会」になりつつある。ところがその東京がまた問題で「出生率1.09」と全国最低、つまり「人口のブラックホール」と化している。全国から若い人間を引き寄せておいて、そこでは結婚や出産も子育ても満足にできないという人口のブラックホールなのだ。しかも、かつては若い人びとは大都市圏に引きつけられていった(プル要因)が、現在では「地方に仕事がないので、仕方なく出て行く」(プッシュ要因)となっている。すべての自治体が生き残ることは不可能でこのままでは共倒れになるから、バラまきではなく「選択と集中」を行う必要があるという。やる気のある「地方中核都市」に注力して人口流出の「ダム」にするのだという。そのためにも東京に「中央司令塔」をおき、「地方司令塔」を統括して「国家戦略」を「グランドデザイン」していく必要があるという。その危機感を持つために「全国の市区町村別の将来推計人口」を示し896の「消滅可能性自治体」をリストアップして一覧表を掲載している。

 さてその手法や論法には一見して「中央官庁」からの「国家目線」が濃厚にあるが、本書が露払いをして安倍政権では「まち・ひと・しごと創生法」が成立(平成二十六年十一月二十八日法律第百三十六号)、地方創生事業なるものが走り出している。

 本書に対抗して『地方消滅の罠』(山下祐介)、『地方創生の正体』(山下祐介・金井利之)など、様々な「反・地方消滅・論」も現れている。

 さて、ここでは、再読してみて、いくつかの論点を示してみたい。

 第1は、この本は、中央官庁からの目線や政権からの目線で書かれてはいるが、これまでの政府の政策にたいする自己批判を含んでいることが、注目される。何しろ1990年の「1.57ショック」以来もう25年もたっているのだ。国家のもっとも基盤となる人口が減り続けている。その間、少子化対策・人口対策は、いろいろやってはみたものの、結果的にはまったく(かどうかは論議があるとしても)効果はなかった。少子化のみならず人口減少や「地方消滅」となれば、いずれ「日本消滅」となりかねない。どこか間違っていたのではないか。さすがにこれは政府による政策の自己批判を含まざるをえない。この大胆な「自己批判」が大きな反響を呼んだ一因だろう。

 第2に、この本のロジックは、政府や行政の失敗を認めているかにみえて、そうではない。「より政策を効率的に実施して効果を出すために、今以上の行政・政府が必要だ」という論理に、すり替えられている。地方政策は「中途半端な対策だった」ことが「原因」とされ、より集中的な対策をすることが提唱されている。「失敗ではなく、不十分にしかできなかったからだ」というわけである。ゆえに、「地方消滅」は国や政府、自治体や行政の失敗ではなく、施策の不十分さを理由づけるものとなり、今以上に強力に地方政策を進める政府・行政が必要だ、という論理に転換される。「選択と集中」をとおして、従来よりも強力な政府・行政を作ろう、という提案にすり替わっていくのだ。

 第3に、「地方消滅」の根拠とされた肝心の「20歳~39歳の年齢層の女性」の意見や意識が、真剣に調査・検討された気配がない。若い世代の女性たちは、なぜ「地方」から出て行ったきり戻ってこないのだろうか。なぜ四半世紀にわたって出生率は低く、晩婚化・非婚化は進む一方なのか。この「謎」は解けたのだろうか。解けないとしても「当事者」である「20歳~39歳の年齢層の女性」の意見や意識を、もっと直接に聞き取り、真剣に考慮すべきではないだろうか。

 第4に、若者の視線の先にあるものが、いったい何なのか、分からぬままに放置されることになった。いや、そもそも、若者自身が「若者の求めているもの」を知らない、「若者の目線」を持つことができない時代になっているのではないか。そう疑わせるものがある。「そういうもの」があれば、もっと早くからそれが調べられたり、発見されたり、主張が噴出してきたりしていたはずなのだ。だから問題の根本には「若者自身にも若者のニーズや若者の望む施策や政策が分からない」という「謎」が潜んでいるに違いない。

 第5に、結果として「少子化」「人口減少」「高齢社会」「地方消滅」という「事実」だけが一人歩きしつづける。「問題」だけが残されて、世の中は依然として、上からメセン、役所メセンでの「対策」が行われることになる。「国家戦略」とは言いながら、戦略でも政策でもない形だけの「対策」が続いていくことになる。

 さて、そこから「先」をもう少し考えてみたい。

 第1に、「地方」という見方や目線、発想を変える必要がある。行政や政治はどうしても「上から目線」で「してあげる」モードから逃れられない。そういうモードを変えろといっている著者の増田自身がぬぐいがたく「上から目線」である。彼はむしろ「中央省庁以上の中央目線」「中央官庁に指令をだす目線」になっている。でもそういう発想で行われてきた「少子化対策」や「地方政策」じたいが、「地方消滅」で問われているのではないか。「うまくいかなくなった」政策の現状を「これまで以上のこれまで」で強引に突破しようとしている。全国にあまねく指令をだしていたが、もうそれが無理になったら「選択と集中」で見込みがあって言うことをきく自治体に「これまで以上のこれまで」「中央以上の中央目線」で対応しようとしている。アナクロニズムそのものではないか。

 第2に、「地元」という見方や発想を、大胆にとりいれる必要があるのではないか。「地元」とは何か。中央から見た「地方」ではなく、現場の当事者の中から生まれてくる何かだろう。「地方」という見方は一般的・行政的すぎて、当事者の愛着や危機感を込めにくい。国や県が考えるのではなく、危機に瀕したその地域の「当事者」が考えていくことが必要だろう。2013年に大きな反響を呼んだ「あまちゃん」というTVドラマは、まさにそのことを訴えていた。少子化や人口減少について役所が代わりに考えても、役所ができる施策しか出てこない。当事者の若者や「20歳~39歳の年齢層の女性」という当事者が考えていくことが必要だ。この転換は難しいが、大切な課題だ。

 第3に、「限界集落」「自治体の消滅」「地方消滅」「消滅可能性都市」といった現状の危機意識を逆手にとって発想をさらに深めていくことが可能ではないか。「限界集落」論が現れたのは意外と近年のことで2007年である。「限界集落」論が「地方消滅」論へと直接つながったわけではないが、通底しているものがある。背景にあるのは「高齢社会」論だろう。「高齢社会」論は「限界集落」論を生み出し、「地方消滅」論へとつながっていく。人が年をとるのは仕方ないことだからと、人々はあらかじめ半分諦めてしまう。しかし「人」の高齢化と「社会」の消滅とはレベルが違う。ましてや少子化と直接のリンクはない。直接に関連しないものを短絡的に関連づけて「政策」へと誘導させすぎてはいないか。そもそも「限界」や「消滅」を眼前にすると、これまでにない危機意識やそれに発する生きる知恵の発動が見られるものだ。農村社会学者・徳野貞雄や山下祐介の研究によれば「限界集落」はたんに高齢化によるものではないし、高齢化によって「消滅」するものでもない。「限界」に直面しているかに見えて家族や親族のネットワークが起動して「どっこい生きている」状況が可能となっているという。「反・地方消滅論」本の多くが、単純な人口減少や若年層の減少で「消滅」するという見方を批判している。「社会」はそれほどやわではないのだ。

 第4に、危機に直面した時の行政自身の対応の転換や変身が求められているのではないか。ジブリの高畑勲監督に「柳川堀割物語」(1987)という作品がある。これは30年近く前のドキュメンタリー映画だが、当時、汚れてやっかいもの扱いされていた堀割を埋め立ててしまう行政計画が進められていた。そこにあるひとりの行政マンが現れて、柳川の「地元」の心のシンボルである堀割の風景を守ろうと立ち上がり、その担当者の熱意と行動力によって堀割の浄化と保存へとV字回復していった経緯をたどった記録映画である。映画なのでやや美化されている部分もあるかもしれないが、根元はシンプルなメッセージだ。「人びとの「地元」意識こそが出発点になった」「問題を他人や行政に任せていても解決はしない」「当事者が問題を直視し、当事者が問題に取り組まなければ根本的な解決はない」「そのためにも行政自身が当事者となって汗をかいて行動しなければならない」。その記録映像がこれだろう。堀割の清掃や浄化という「地元」のルーツを見つめる一点からの展開が、30年前の奇跡を起こした。いま、柳川も「消滅可能性都市896」のひとつにリスアップされている。まさに30年前と同じ状況におかれているのだ。

 *増田寛也編著『地方消滅』(2014、中公新書)


「地方消滅」3

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