加藤典洋氏が昨年の『新潮』9月号に書いた「シン・ゴジラ論」を読んだ。加藤氏は、以前から斬新な「ゴジラ」論を発表してきたので、今回の「シン・ゴジラ」をどう観たのか。何しろ、「ゴジラ」の次回作には、ぜひ脚本に参加したい、とすら書いていたのだ。その希望は叶えられなかったわけだが、それゆえ、今回の「シン・ゴジラ」をどう観たのか、興味はつきない。
さて、加藤典洋氏の「シン・ゴジラ論」、いろいろと斬新な視点があった。
まず、次のような指摘に驚いた。1954年の「ゴジラ」第一作が、発足直後の自衛隊をさっそく登場させ、画面いっぱいに大々的な「軍事行動」を展開した初めての映画だったということ。ついで、2016年の「シン・ゴジラ」は、日本政府が米国に、はじめて日本防衛の軍事作戦を要請し、米軍が東京上空で、はじめて軍事作戦を展開する映画だった、という指摘である。
なるほど、言われてみればそのとおりなのだが、ひとりの観客として、そういう風には観ていなかったのである。
もうひとつの特徴は「エヴァンゲリオン」との対比で多くが論じられていること。これは、私も「シン・ゴジラ」を観たときにまっさきに感じたことだから、驚かなかったが、その「エヴァンゲリオン」の論じかたに独特のものがあって興味深かった。何しろエヴァに毎回登場する「使徒」は「台風」のメタファーだというのだ。これにはたまげてしまった。しかし、言われると、たしかにそうだ。人知を越えた自然の猛威が、突如、日本を襲ってくる。しかも頻繁に。地震は地下からだが、台風なら上空から襲ってくる。なるほど、というわけである。
三つめの指摘。「ゴジラ」の原点となった1954年の第一作は、「ゴジラ」に、米軍の東京大空襲や原爆、そして太平洋戦争での死者が重ね合わされていた。今回の「シン・ゴジラ」には、もちろん原発事故や米軍(や国連軍)という存在が重ね合わされている。
しかし、それだけではない。今回の特徴は、そこに「電通」という存在も大きく重ね合わされているというのだ。この場合の電通とは、メディアや報道にリミッターがかかる、という日本的な現象のメタファーでもある。これまで何度も論じられてきた「1954年のターン」など、政治的・文化的タブーが、今回も、なぜ突破できないのか、それについても言及している。この指摘にも、なるほど、であった。


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