福岡市図書館シネラで黒澤明の『羅生門』を観ました。学生時代に一度観ているはずですから約40年ぶりの再見です。驚きました。あまりにも覚えていないことばかりだったので。なるほどこうだったのか。

事件の関係者3人が3様の「事実」をしゃべる──つまり3人の異なった殺人者が現れる、とくに3人目は巫女が出てきて死者を代弁する。これは夢幻能だ。そういえば竜安寺の石庭のようなところに関係者が並べられていて、あぁこの映画は能舞台なのだ、能仕立てだったのだ。
さらに多襄丸の三船は「七人の侍」の菊千代にそっくり、志村喬や千秋実、加東大介とともに「七人の侍」はもうここから始まっていたのだ。
結論。映画は一度観ただけでは分からない。本と同じように二度、三度と観るたびに違って見えてくる、違ったものが見えてくる。これって「羅生門」のメイン・メッセージだったんだな。



じつは芥川龍之介の原作にはない第4の視点として、最後に杣(そま)売りの志村喬も語るのです。でもこれで殺人者が4人になるわけではなく、また、この杣売りが、最後にどんでん返しのような形で、黒澤明的なヒューマニズムのオチをつけるところが、ちょっといまいちな気がします。

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