そもそも学生は、大学生になっても「学ぶ」ことが「答えを教えてもらうことだ」と思っているふしがある。
でも高校までとは違って、世の中にはそう簡単な答えはない、いや正解なんかない(かもしれない)なかで、自分で考えて決断していかなくちゃならない状況が、どんどん押し寄せてくるのが実社会だろう。だから「教えてもらう」のではぜんぜん足りなくて、自分で考えていかなくちゃならなくなる。そのために、考えるための方法論だとか、考えるための素材だとか、より深く考えるための理論だとか、良く考えている人の本や著作の探し方とか、そういう方法論に関わる部分を、大学では提供しているのではないか(あまりにも当たり前の話なんだけど)。
ところが、これまた考えるのと行うのとでは大違いで、じっさいには出来ない。ついつい人の答えを待ってしまう、人の答えを聞こうとしてしまう、正解を他人のコトバのなかに、求めてしまう。単純で明快なメッセージにころりと参ってしまう。そこまで単純ではないにしても、やがては、裏切られた、失望した、だめだだめだ、ということになったりする。大学や教育内容も、だんだん「消費対象」になってきて、できるだけ安く、安楽に知識や単位が得られると、それが大学の授業評価、となっていくのだろうか・・・

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