『ブレードランナー』(1982)の舞台設定は2019年のロサンゼルスだったんですね。一昨日NHK-BSで放映された『デンジャラス・デイズ:メイキング・オブ・ブレードランナー』(2007)を観ましたがじつに興味深かった。こんなにも詳しく舞台裏が記録されていたとは知りませんでした。とりわけ興味深かったのは、当初からタイレル博士はすでに死んでいて、レプリカントと対したのはレプリカントの博士だったという設定も検討されていたこと。リドリー・スコット監督はデッカードも、じつはレプリカントだったという設定にしたかったようだ。こうなると誰が人間で誰がレプリカントか、決定不可能になる自己言及のパラドクスですね。それではひねりすぎてかえって面白くない。続編の『ブレードランナー2049』はそこにこだわったあげく善と悪の二元論の平凡な話になってしまった。1982版『ブレードランナー』はシンプルにレプリカントと人間の対決になっているのですが、クライマックスで大きなどんでん返しがあり、あっと驚く結末になっています。レプリカント・ロイの最期の瞬間、悪が善に昇華する。そして善なるものがじつは悪だったのかもしれないことを観客も理解する。そこでもういちど善なるものへ向けての脱出と逃避行がはじまる、というところが何度観てもこの映画のハイライトですね。だから監督や制作者の意図を超えて、この映画が生き延びていくのではないでしょうか。それにしても最後の逃避行の映像は、スタンリー・キューブリックの「シャイニング」のために撮られた映像の「アウトテイクス」だったとは!

追伸
NHKで放映された「ファイナルカット」版だと、ユニコーン映像などが入って、1982版のラストの逃避行シーン(キューブリックのシャイニングのアウトテイクス)がカットされています。ハリソン・フォードのオフの声もなくなっています。なんということだ。ちょっとこれはどうなんだろう。監督が手を入れたものより、1982年の最初の版のほうが、いいですね。


このロイのラストシーン。ルトガー・ハウワーが、当初のシナリオにあった過剰に説明的なセリフを、自分で詩的な言葉に置き換えたのだと語っていました。すごい! 彼の力で、このラストシーンは成り立ったのだ。

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