宇多田ヒカルさんが、音楽教室での楽曲使用について、ツイートしたらしい。
私たちも授業など教育場面での、著作権問題については、いつも悩まされているので、すこし考えてみた。
◆事例1──昨年末にNHK・Eテレの日曜美術館の特別編として「行く美、来る美」という番組があった。話題を呼んだ美術展のキュレーターたちが集まって昨年と今年の美術展について語っていたのだが、中でも興味深かったのは、「美術展での写真撮影について、どう思うか」だった。ヨーロッパなどでは「原則許可」、特別な事情がある場合には禁止、となっている。日本にもその流れが来るだろうか、という問いかけだった。最先端のキュレーターたち、ほぼ全員が「原則・許可」に賛成していた。なぜか。「最近の展覧会では、写真にとってSNSで友人たちとその感動を共有する傾向になっている」「それが美術や芸術のためにもなる」ということだった。最先端では時代は大きく変わっているのだ。
◆事例2──ところが日本では、展覧会や寺社などでの写真撮影は「原則・禁止」になっている。むしろ、かつてよりも、著作物の撮影禁止が厳重になってきた。なかでも、人物の顔写真の撮影禁止は、個人情報の保護ということで、とても、うるさくなった。なんだか、逆行しているような感じでもある。
◆事例3──考えてみると、著作権、というのはじつにパラドクス(逆説)に満ちている。「見せたい、読ませたい、聞かせたい、しかし、見せたくない、読ませたくない、聞かせたくない」という矛盾した構造をしているからだ。見てもらって、聞いてもらわなければ、著作権料も発生しないのだから、見て、読んで、聞いてもらわなければ、ならない。しかし、それには「著作権料を支払った上で」という限定をつけたい。その限定を付けすぎていくと、だれも来ない、誰も読まない、誰も見ない、誰も聞かない、ということになってしまう。ちょうどよい案配に、見てもらって、聞いてもらうことなど、出来るのだろうか。
◆事例4──つい先日も大学の講堂で100年前のSPレコードや蓄音機時代の芸能レコードのコレクションのお披露目があった。SPレコードの音を聞かせるので「録音してもよろしいか」という質問があったらしい。それにたいして「著作権があるので許可できない」という。聞くほうも聞くほうだが、こたえるほうもこたえるほうではないか。100年前の大衆芸能に「著作権」はあるのか。この「著作権」とはいったい何か。考え込んでしまった。


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