福岡の桜はあらたか散ってしまいました。こんどは藤が満開です。かつて九州大学教養部があった六本松に、不思議な和菓子屋さんがあって、この時期、フジ屋敷のようになるのです。まるで両目からフジの花が溢れだしているようで圧巻です。


博多湾の突端で考える
昨日、思い立って、博多湾の突端、筥崎宮と玄界灘への出口の一直線上にある絶景スポットに立ってみた。
ここは玄界灘に北面して寒風吹きすさぶ凍えるような寒さ。左に能古島、右に志賀島がある。その間にみえるは小さな岩礁や行き交う船舶だ。この彼方に朝鮮半島や中国大陸がある。1400年近く前には、ここから遣唐使が出て行ったのだろうし、700年ほど前には、この狭間をとおって「元寇」が博多にやってきたのだった。そして現在は、韓国からは高速艇ビートル、中国からはクルーズ船がやってくる。さて今年も東アジアは波乱含み。毎朝、BSニュースで韓国KBSや中国のニュースを見ていると、あんまり良い兆候は見当たりませんね。
春と秋は、デジカメが大活躍のシーズンだ。
花と紅葉、どこが似ているか。たんに美しいだけではない。
日一日、刻一刻と、その色や美しさが移り変わっていくところ、花も葉も、徐々に美しさが生まれ、やがて頂点に達しと思うと、あっというまに消え去っていく、そのうつろい。はかなさ。切実さ。
なんだかなぁ、人間世界そのもののようで、身につまされる。
美の頂点へ向かって、少しずつ上り詰めていって、そしてほんのつかのま輝き、あっというまに失われていくさま。
私の研究室の真ん前の、中国の櫂の樹。今、その紅葉を見つめながら、はらはらどきどきしながら、シャッターをきる。
いまがピークなのではないか、いまをのがすともう見られなくなるのではないか。
そういう切実さ、切迫感に動かされて行ったことは、写真にかぎらず、社会調査でも、フィールドワークでもインタビューでも、あとにかぎりない充実感をのこすものだと思う。
今年は、札幌での日本社会学会などがあって、毎年、恒例の「唐津くんち」へ行くことができなかった。毎年、学生や留学生をさそって、九州の秋祭りの代表として、唐津くんちを紹介していたのに残念だった。例年の日程はこうだった・・・朝の電車で唐津につく、すぐに町を練り歩くくんちをベストスポットで見る、そのあとすぐに鰻の竹屋に。絶品の鰻丼や骨せんべいを賞味したあと、午後は唐津神社へお参り。その後、唐津の浜辺にでて、美しい砂浜を歩いて唐津城まで上ってから夕方、帰福・・・というコースで、これはなかなかのものではないかと思っている。さて、そのコースの重要な一点、木造3階建ての重要文化財級の鰻屋さんにいる(いた)、竹屋の、美猫である。藤原新也の写真集『メメント・モリ』に出ていた「猫は漬け物石である」というフレーズを思い出す。
