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インターネットと選挙
総選挙が近いけれど、学生の選挙への関心は、さっぱり盛り上がらない。隣国・韓国の大統領選挙で、安候補の登場で、若者の政治参加が大きく盛り上がっているのと対照的だ。このことについて、韓国からの留学生と話し合ってみた。大きな違いのひとつは、インターネットが選挙戦にどういう役割を果たしているか、のようだ。韓国だけでなく、アメリカのオバマはじめ、世界中が、インターネットを活用して、選挙への若者の関心を引き寄せているのにくらべ、日本は、どうやら「ガラパゴス化」というべきか「化石化」というべきか、インターネットやSNSが選挙では「禁止」になってしまう。どうしたことか。これは90年前の法律を引きずっているとか、新聞・TVなど既存の大手メディアが、競争相手のインターネット参入を拒んでいるからとか、いろいろな解説があるようだ。しかしいずれにせよ、結果的には、こうやって若者を選挙や政治から見事に「排除」しているのだなぁ。何しろ、いまどきの若者は、まずぜったいに「新聞」なんか読んでないから、選挙や争点についても、まず関心ないということになってしまうのだろう。しかし将来的には、このインターネットの世界が政治に入ってくることを、日本だけが拒み続けていくことなど出来るはずがない、絶対に。そうして、若者の政治参加がインターネットによって進むと、はたして「乱世」になるのか「動乱」になるのか、「革命」になるのか「保守化」するのか、はたまた「民主化」になるのか「近代化」になるのか、予測することは難しいけれど、現在のような政治状況がいっきに変わることは間違いないだろうと思われる。


アール・ヌーボーの町、パサージュの町
「アール・ヌーボー(フランス語: Art Nouveau)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動。「新しい芸術」を意味する。花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐に亘った。第一次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、アール・デコへの移行が起き、アール・ヌーヴォーは世紀末の退廃的なデザインだとして美術史上もほとんど顧みられなくなった。しかし、1960年代のアメリカでアール・ヌーヴォーのリバイバルが起こって以降、その豊かな装飾性、個性的な造形の再評価が進んでおり、新古典主義とモダニズムの架け橋と考えられるようになった」(ウィキペディア)とあるが、こんなものではない。もっともっと豊かで、それを見た者をぐぐぐーっと引きつける魔力のようなものをもっている建築・インテリア芸術だろう。プラハは、まさにアール・ヌーボーの町なのだ。

そしてそこにひそむ「パサージュ」とは。

「パサージュ(passages)とは、19世紀以降のパリにみられる、ガラスのアーケードのついた歩行者専用の商店街のことである。もともと、「パサージュ」とはフランス語で、「通過」や「小径」などをあらわす。パサージュの起源は、1786年にパレ・ロワイヤルの庭園を分譲して店から賃貸料を得た。歩道の整備が進んでいなかった時代に、パサージュは歩行者にとって快適な場所として成功をおさめ、19世紀を中心に建設が流行した」(ウィキペディア)とあるが、パサージュが今日、有名なのはヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』があるからだろう。そしてプラハは、まさに、アール・ヌーボーの町であり、かつ、パサージュが美しくある町なのだ。

 


 


NHK・BSプレミアムで世界遺産プラハ城の番組をやっていました。ついこの間、いったばかりのプラハ城だったので、興味深く視ましたが、やはり人によって視点は異なるもの。私がプラハ城やその周辺でたいへん興味深いと思ったところは取り上げられておらず、あんまり興味関心が持てずにスルーしたところが大きく取り上げられていたりして、まあ、こんなものかな。でも、やっぱりプラハ、すてきあ街ですね。城とか貴族の館とかより、むしろ屈折にとんだ庶民の街角のほうに、より世界遺産にふさわしい歴史の奥行きを感じましたね。


カレル橋の手前から、対岸のプラハ城をのぞむ

有名なモルダウ河にかかるカレル橋

カレル橋のたもと、モーツァルトがやってきて、この教会のパイプオルガンを演奏したという。

夢の空間、ストラーホフ修道院の図書室
プラハに行った人は、プラハ城までは必ずいくでしょう。でもその先にあるストラーホフ修道院まではなかなか行かないかもしれません。しかしここは城以上に行く価値のあるところです。とりわけその図書室は、すばらしい空間です。


チェコ・フィルハーモニーの本拠地、ルドルフィヌム
残念ながら8月はチェコ・フィルハーモニーの公演はなし。有名なドヴォルザーク・ホールにも入るチャンスがなかった。かわりにおなじルドルフィヌム内のヨゼフ・スーク・ホールでの室内楽のコンサートがあった。ヨゼフ・スークというのも有名なヴァイオリニストだが、彼の名前をとった室内楽ホールもなかなか美しい中ホールだった。こういうホールが夜ごとさんざめくごとくにコンサートをしているのだから、プラハはやはり、名だたる音楽都市である。


ヨゼフ・スーク・ホール

小コンサートのおわったあとで・・・

夢のホール、スメタナ・ホール
私がプラハに滞在した8月上旬、クラシック音楽界はシーズンオフなので、チェコ・フィルハーモニーはじめ、有名な楽団は夏休みだ。しかしプラハでは体制転換後、観光都市としてがんばっているためか、夏休みでも途切れなく有名なホールで夏の小コンサートが開かれている。ためしに町のCDショップなどをのぞくとあるわあるわ、たくさんのコンサート情報が。そこでまず有名なスメタナ・ホールから行ってみることにした。ここは、モーツァルトが指揮棒をふったティル劇場や、チェコ・フィルの本拠地ルドルフィヌム(ドボォルザーク・ホール)と並んでたいへん豪華な著名なホールである。ここでたしか「のだめカンタービレ」のロケが行われたのではないか。


天井の演出がすばらしい

プラハの「新世界」
チェコで新世界といえば、ドヴォルザークの交響曲を思い出してしまう・・・が、それとは違う「新世界」が城のすぐ近くにあった。Michelin Green の地図をみていたら「New World」とあって一つ星がついている。何となく気になって坂道を下っていった。その先は写真のようなどことなく古びた懐かしい感じの街区である。調べてみると
「プラハの新世界は王宮の北西の壁の内側、つまり旧世界の果てにあった。これが出来たのは500年前である。それでいて名前が「新世界」という所にプラハ人独特の皮肉がある」(カメラ評論家のチョートクさんのブログより)とあった。ふうーん。何もないけど懐かしい、ついさまよい込んでいきたくなるところだ。


 

ウ・フレクー
プラハには有名なビアホールがいくつもある。そもそもチェコはビール大国なのだ。ここ「ウ・フレクー」は大衆酒場といった活気あふれる場所。午後おそくに入ったら、もうすでに満員、騒然。相席になった老夫婦はハンガリーから来たという。ここでの飲み方を教えてもらった。ジョッキに入った黒ビールとともにちょっと強めのリキュールを飲むのだという。


大きなダック、とても食べきれない

プラハにおけるカフカ
現在のプラハにおけるカフカとは、どんなものなんだろうか。じっさいにプラハを歩いてみると、どこか微妙なものがあるように感じられた。こういうことだ。カフカは、チェコ人ではない。ドイツ人でもない。カフカじしん、はじめはユダヤ人であることもあまり意識していなかった。こういう微妙な存在として、プラハでひっそりと生きたカフカが、チェコやプラハを代表する人物であるかのように国外で喧伝されることにたいするプラハの人たち、およびチェコの人たちの無意識が反映されているのだろうか・・・。たった5日間しか滞在しなかった旅人には、そこまで深いものは分からないのだが。でも、なんとなく、カフカ博物館などは、どこかカフカを突き放したような、そんな雰囲気が感じられる。スメタナやドヴォルザークなどは、手放しでチェコの偉人として称揚しまっくっているのにたいし、カフカにはそのような賛美が感じられない。(蛇足ながら、本場、プラハでスメタナのモルダウ、ドヴォルザークの新世界など聴くと、ううーむ、ちょっと、どうも、こんなものかな、と思ってしまう。率直に言って、小中学生が感動するような、国民歌なんですね)。


カフカ博物館 収容所の建物をイメージしているのだろうなぁ

 シナゴーグとなりにあるカフカの像

カフカ巡り3 カフェ・アルコ

カフカの行きつけのカフェが「アルコ」だった。池内紀によれば「カフェ・アルコは日常に欠かせない店になった。友人ブロートと会う。新聞や新刊書を読む。手紙を書く。その辺りは多少ともいかがわしい地区であって、ひそかな愉悦にも利用できる」とある。たしかに、地方から多くの人びとが到着する駅の近くにあって、いまやアラブの人たちの蝟集する、ちょっと危ない雰囲気のある地区となっている。そして「アルコ」じたい、残っているが、もはやかつての輝きはいようだ。


チェコが社会主義国であったことを感じさせる駅舎。地方からの労働者が到着するようだ。

日本の駅よりすばらしい

カフカ巡り2 映画館ルツェルナ
カフカの伝記を読むと、カフカは初期の映画を見ることが好きで「キノ・ルツェルナ」に通ったという。池内紀の『カフカの生涯』(白水社)によれば変身や審判などの作品は「初期キネマトグラフの作品と奇妙に似ている」。池内紀によれば「映画館ルツェルナはプラハに現存している。美しい外観をもち、なかなか優雅なつくりである。かつてそこには、痩せてヒョロリと背の高い小官吏が、客席にすわり、じっとスクリーンをみつめていた」とある。さっそくさがしました。このルツェルナ館、プラハの中心部にあって、ほんとうに優雅な店の並ぶ、いわゆるアール・ヌーボー様式のパッサージュを形成しています。

調べてみると「Lucernaとはランタンの意味である。これを設計したバーツラフ・バベル(同名の元大統領の祖父の建築家)が1909年にこの総合アートセンターを落成させた時には一大センセーションが起こったそうだ。映画館、ギャラリー、事務所、店舗の複合コンプレックスの走りである。建物はアールヌーボー様式の現代ではちょっと見られないインテリアである。全館が当時の最新デザインであるのは、20世紀初頭というのはチエコは欧州の列強の中で経済的にも文化的にもその繁栄を謳歌していたからだ」とある(チョートクカメラ日記)。


 

カフカ巡り1 公務員カフカの職場
カフカの職場。カフカが一生を小官吏として過ごしたことは良く知られている。「労働者災害保険局」で熱心に勤めたらしい。さて、その勤務先はどんなものか。案外知られていないと思うが、プラハの中心部にある堂々たる建物だった。「公務員カフカ」はこんなところで働いていたのか。この建物、いまやけっこうな高級ホテルになっている。中に入ると、そこは「カフェ・フェリーツェ」なるものがあって、カフカの恋人フェリーツェ・バウアーをイメージしたカフェ・レストランになっている。


プラハの夢のホール「スタヴォフスケー劇場」
ここが映画『アマデウス』が収録された劇場。モーツァルトが3度もやってきて、ここでオペラを上演したのです。ここがその劇場なのかと思うと、感慨ふかいものがあります。はいってみると、予想外に小さい。ぐっと小さい感じです。しかし、舞台に引き込まれるように近く、そして「夢の空間」というにふさわしい、劇場としての「華」にあふれています。
調べてみると・・・世界中のオペラハウスの中でも、現存するものとしては最古の劇場だそうです。1787年10月にモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」が初演されたという栄光の歴史を誇り、「フィガロの結婚」や「魔笛」も大成功を収めたとあります。1791年には最後のオペラ「皇帝ティトの慈悲」も初演されたそうです。ううーん。プラハは、すごい。


これが夢の空間への入り口

夢のような空間

なかはこんなに小さい。

コンサートのあと、外にでると夕立がしていた。

モーツァルトがドンジョバンニを作曲したベルトラムカ荘
モーツァルトがプラハに三度滞在したことは有名です。そしてオペラ「ドンジョバンニ」の最後の部分を作曲したというベルトラムカ荘にいってみました。これがそのベルトラムカ荘ですが、思っていたよりは都心に近い。地下鉄で近くまではいけます。しかしそこは思っていたより、ちょっと荒れ果てています。旧共産圏から脱して20年。プラハはマクドナルドとスタバが席巻しています。反面、伝統的なチェコは苦戦しているのでしょうか。国際モーツァルテウム財団(おそらくザツルブルグ)と、チェコのモーツァルト協会が、ちょっとうまくいかなくなって、所有者のモーツァルテウム財団が中身を持ち去ったとか掲示されています。どうもトラブルがあるようです。ガイドブックに出ていたモーツァルトの遺髪なども、もはや展示されてありません。土地も小さくなっていますし、建物も、いたるところひび割れて、チェコの難しい側面を垣間見ました。


ベルトラムカ荘

このようにちょっと荒れ果て始めている・・・

今日、午前中、時間があったので、モーツァルトがプラハで滞在して、ドンジョバンニを作曲したというベルトラムカ別荘にいってみました。ちょっと荒れ果てています。旧共産圏から脱して20年。プラハはマクドナルドとスタバが席巻しています。反面、伝統的なチェコは苦戦しているのかも。国際モーツァルテウム財団(おそらくザツルブルグ)と、チェコのモーツァルト協会が、ちょっとうまくいかなくなって、所有者のモーツァルテウム財団が中身を持ち去ったとか掲示されています。どうもトラブルがあるようです。ガイドブックに出ていたモーツァルトの遺髪などもありません。土地も小さくなっていますし、建物も、いたるところひび割れて、チェコの難しい側面を垣間見ました。


チェコ共和国のプラハに来ています。パリでの乗り継ぎがぎりぎりでした。からくも間に合ってプラハに到着したのですが、荷物がありません。さて、困った。ほかにもずいぶん荷物が到着しない人がいたようです。

次の便で到着すると思って、ホテルに移動しました。

ところが、翌日も、翌々日にも、荷物がとどきません。

エールフランスに電話してもらちがあきませんでした。

衣類だけでなく、ノートパソコンも、デジカメも、すべてスーツケースに入れていたので、これには参りました。

このまま、荷物なしに旅をつづけることになったらどうしよう、などと不安がつぎつぎにわき起こります。

カフカの街で、まったく不条理な世界に入り込んでしまったような気すらしました。

とうめん生活のため、歯ブラシやひげそりなどを買いに出かけましたが、この時ほど心細かったことは、ないですね。

夜にもホテルマンにエールフランスに電話してもらって、荷物が2日目の夜になっても、まだパリにあることが分かりました。少なくとも紛失はしていなかったので、ちょっと安心しましたが、ゆだんできませんでした。翌朝の1便で送るといっていたのに、その日の夕方になってもつきません。ようやく到着したのが、夜でした。

 

海外に出かけはじめて30年以上になります。毎年数回はでかけるから、相当な回数になっているはずですが、今回のような荷物の不着は、過去に一度、フィンランドであっただけです。その時は、真冬のフィンランドだったのでマイナス20度の世界で、着るものがなくて、寒い思いをしました。でも、その時は、フィンランドの現地の人に助けられて下着や歯ブラシを入手し、また荷物じたいも翌日には安着しました。

今回は、JALでパリにきて、そもそも、巨大なドゴール空港での乗り換え時間が短いなか、成田の発着がおくれてパリに1時間おくれで到着したという事情もあります。でも、JALもエールフランスも、こういうことではちょっと困りますね。ほかにも何人も荷物がこなくて途方にくれている人がいましたし。

また、もし忙しく移動するスケジュールだったら、どうなっていたのだろう。

そうしたことを考えると、なかなか、きもをひやすような事件でした。


城の中にある、カフカの仕事場

カフカの通ったギムナジウムの階段

かつてのギムナジウム、カフカの父の店のあったあたり